論理の流刑地

地獄の底を、爆笑しながら闊歩する

「知的生産の技術」(梅棹忠夫, 1980)

Notes

関係ないけど最近一番嬉しかったことは、
小野 滋さんの「読書日記」が復活したことである。
twitterを拝見する限り、体調を崩して休養していたようだ)

博覧強記ってこういうことかと言わしめるこんな方が在野にいるんだなって思うと
私は怠けているなぁ。

Motivation

知的生産の技術 (岩波新書)

知的生産の技術 (岩波新書)

田舎な最寄りの図書館の最近入った本のなかに見つけた(昔の本なのに)。
梅田望夫(いま何やってるんだろう..)が著書で猛烈に推してたのは記憶にあるんだが、
実際この人の本を読んだことはないので、息抜きがてら。

Point

面白いと思ったところをメモ。

てか、思ったよりも具体的なツールの使い方指南みたいな本で、
私みたいな頭の悪い人間には、いまいち現代の仕事の仕方に対する応用方法が難しいのだが、
著者の文体には(偉大な先生なのに)えらぶったところがなくて好感が持てるので、それだけでずるずると読んでしまった。
あとひらがなが多いのがいい。癒される。

研究の「方法」「技術」を考える必要性について

(引用註:当時の日本の研究者は生産性がひくく、それは研究の方法をしっかりと考え論議しないからだ、という前置きにつづいて...)
知識において高度なものを身につけているくせに、研究の実践面においては、いちじるしく能力がひくい、というような研究者がでてくるのである。
じつは、わかい人たちのことばかり、いっておられないようだ。われわれ中堅どころにいる研究者だって、ほんとうは、おそろしく研究能力がひくいのではなかろうか。
それも、頭がわるいとか、なまけものだとかの理由からではなく、もっぱら研究の「やりかた」がまずいために、研究能力がひくい段階にとどまったままでいる、ということがあるのではないだろうか。いわば、技術の不足にもとづく研究能力のひくさである。
(pp.4-5)

大変耳と胃がいたい話。独行法化した今日の大学もあまり変わらない。
ヒラノ教授シリーズで、アメリカ(のtenure前の研究者)が"publish or perish"(論文を出さなきゃ消える)っていうカルチャーだということが
紹介されていた。

「おそろしく研究能力がひくい」研究者が忙しい忙しいといいながら論文を何年も出さないままになるのであるのを間近にみてきているので、なかなか考えさせられる。(研究能力がひくくない研究者がいろんなPJTの管理をまかされて自分の論文をpublishできないのも見ているが、それはまた別の話..)

(引用註:研究の方法をみんな公開したがらない、秘伝にしたがるという話の流れで..)

技術というものは、原則として没個性的である。だれでもが、順序をふんで練習してゆけば、
かならず一定の水準に到達できる、という性質をもっている。それは、客観的かつ普遍的で、公開可能なものである。
ところが、それに対して、研究とか勉強とかの精神活動は、しばしばもっとも個性的・個人的ないとなみであって、
普遍性がなく、公開不可能なものである、というかんがえかたがあるのである。
(中略)
しかし、いろいろしらべてみると、みんなひじょうに個性的とおもっているけれでお、精神の奥の院でおこなわれている儀式は、
あんがいおなじようなものがおおいのである。おなじようなくふうをして、おなじような失敗をしている。
それなら、おもいきって、そういう話題を公開の場にひっぱりだして、おたがいに情報を交換するようにすれば、進歩もいちじるしいであろう。
(p.8)

研究者は誰もが「自分は個性的」と思っている(が、みんな意外と似ている)というのは思い当たるところがあって苦笑させられる。

面白箇所ー"天才"梅棹ここに在りー

(引用註:メレジューコフスキーの「神々の復活」に描かれているダ・ヴィンチがメモ魔であるところから梅棹もメモ魔になったという話の流れ)
ところで『神々の復活』に感動したのは、わたしばかりではなかった。
わたしには、幾人かのしたしい友人のグループがあったが、みんなつぎつぎにこの本をよんで、それぞれにつよく感動した。
青年たちは、ダ・ヴィンチの偉大なる精神に魅せられて、それぞれのその偉大さに、一歩でもちかづこうとしたのである。

ただ、その接近法は、人によってちがっていた。いまは東京工大の教授になっている川喜田二郎くんなども、そのときのグループの一人だが、
かれはもともと左ききだった。ダヴィンチが左利きだったという事実は、かれを、ダ・ヴィンチにむすびつけるおおきい力となっていたかもしれない。
かれは、『神々の復活』をよんで以来、左手で画をかくのが目立ってうまくなったようだ。
(p.23)

個人的な面白エピソード部分。川喜多二郎って高校・大学で梅棹忠夫と同期で今西錦司門下でマブダチだったというね。
旧制高校→帝大のルートって、こういうやばい相乗効果のピアグループがいくつかあって、バカにできないのである。
(今も開成灘etc→東大京大etcで同じことは起きているかもしれないが)

しかし10年くらい前に謎の(というと失礼だけど)梅田望夫さんのブーム的なものがあって、任天堂の故岩田社長や糸井重里と鼎談したり、なぜだか将棋の観戦記をかいていたりした。
当時10代の私も少し影響を受けて「ウェブ時代をゆく」を愛読したりしていた(そしてそのことをすっかり忘れていた,,,というか黒歴史と認識しているのか!?)のだが、彼が私淑していた梅棹忠夫の同門(?)の川喜田二郎の弟子や孫弟子や曾孫弟子の先生方と仕事をする機会もあったりするので、人生って数奇ですね(何の話だ)

数式をとりあつかうのに、暗算も筆算もそれぞれ特色があるように、思想を開発するにも、そらでやるのと字をかいてゆくのとでは、おのずから特徴がちがっている。それぞれの人の性質やくせにもよるけれど、ことの筋道の透察や、論理の組み立てについては、すくなくともわたしは、文章にかかないで、宙でかんがえるほうがうまくゆくことがおおい。
(p.27)

ここらへんは結構天才と凡人の分かれ道というか、知り合いの知り合い(つまり他人)の某天才数学者は、4次元が頭の中でイメージでき、暗算できるらしい。梅棹忠夫もどちらかというとそのタイプだったのではないか。

で、ここからは完全に推察というか妄想でしかないんだけれど、川喜田二郎ってあんまり頭の中での暗算が得意なほうではなくて、それでいて周りには暗算大好きっ子の梅棹とかもいて、それであんなsystematicなKJ法を生み出してしまったのではなかろうか。
この本と川喜田の「発想法」を両方ともよんでおもうのは、川喜田のほうが工学的、エンジニア的でヒューリスティックな方法を好み、梅棹のほうがより「職人芸」の領域を残したがるということなんだよなぁ

わたしも頭の中で宙で考えるのは得意ではないので、(私怨込みで)暗算モンスターよりも生産性を高めるためのツール作りにいそしんでしまうのである。まあ意外にちゃんと仕事に役立つからいいんだけどさ。

知的生産の技術のひとつの要点は、できるだけ障害物をとりのぞいてなめらかな水路をつくることによって、日常の知的活動にともなう情緒的乱流をとりのぞくことだといっていいだろう。精神の層流状態を確保する技術だといってもいい。努力によってえられるものは、精神の安静なのである
(p.96)

ここらへんがやはり天才っぽいところ。凡人は水路を引いて水を流すのにも一苦労するんだぜ、おやっさん....

第5章「整理と事務」

一見知的生産とはあんまし関係なさそうなこのような事項に一章を割いて、「いかに私は整理整頓のできない人生を送ってきたか」ということを滔々と語っているのが、まず面白い。
苦闘の末に梅棹御大がたどりついたのが、なんの変哲もない「書類をカテゴリごとにファイルにまとめて縦にする」という方法だったのも面白い。

その方法とは、基本的には、
・固有名詞レベルのカテゴリ分け(要するに、「学会関係」ではなく「XX経済学会」などにしておく」)をして、フォルダ(=「口座」)をつくり、処理中の書類を除きフォルダに収納・保存する
・フォルダ名によるアイウエオ順で、キャビネットに収納する
・処理中の書類については、別の仮保管場所(未決箱)をつくる
だけである。

仮保管場所を作るというのは盲点だったようで、以下のように書いている

手紙がきたら、まず要件を処理しなければならないのだ。それがすむまでは、手紙は机の上の未決箱に入れておかねばならない。返事をかくべきものはかく。それがすんだら、返事のコピーと一緒に、ファイルにいれるのである。つぎにその用件のつづきがおこったら、ファイルがものをいう。それに関する過去のいっさいのいきさつが、ファイルにおさめられているのだから。
(p.90)

たぶん下のまとめにのっているようなものを想像すればよいのであろう
GTD式・一般参照ファイルキャビネット管理術! - Togetterまとめ


整理というのは、ちらばっているものを目ざわりにならないように、きれいにかたづけることではない。それはむしろ整頓というべきだろう。
ものごとがよく整理されているというのは、みた目にはともかく、必要なものが必要なときにすぐ取り出せるようになっている、ということだとおもう。

(中略)

整理は、機能の秩序の問題であり、整頓は、形式の秩序の問題である
やってみると、整頓より整理のほうが、だいぶんむつかしい。たとえば、書斎のなかをきれいに整頓することは女中でもできるが、整理することは主人でないとできない。
(p.81)

要するに、何にどこがあるかをしっかりしていればいいよね、という話だが意外とそれができないんだよなぁ。
流罪人生活が終わったら、書類整理用の大きめのスチール棚を買おう(こうやってオシャレ部屋からだんだん乖離していくのである..)

ビジネスの世界と研究の世界との距離について

ざんねんながら、研究活動をはじめ、知的生産活動一般の技術は、
はなはだしく未開発のまま放置されているようにおもわれる。そういうことは個人の内面における深遠な個性的創造活動だから、技術化などはできないのだ、などとおもっているうちに、最も世俗的なビジネスの世界の、平明な技法の進歩に、たちまちおいこされてしまったのである。
今日においては、知的生産は、その技法において、ビジネスの世界にまなばなければならない点が、ひじょうにおおいようにおもわれる(p.94)

これは、心から同感(てか昔からそうだったのか...)。正直いって専門知の多寡以外のところで、研究者(top of topをのぞく)は、おおいに生産効率性の面で遅れをとっている。
これは、個人でやるかチームでやるかというところにも関わっている気がしていて、チームで動く企業だとそこまでtrainedでない労働力をどううまく最終的な知的(にみえる)outputの生産に動員するかっていうことが考えられているから、規格化・標準化の努力が自然に為される。理工系も、院生を動員してチームで何か研究することが多いから、結構考えてる。

人文社会科学の研究者(って括りが雑すぎるが)はあまりそこらへんを考えていないので、論文をかくための標準的な「マニュアル」を作って多少素養のある院生に渡したら、東大教授とか目じゃないほどの生産性を叩き出すのではないか、という分野が確かにある。

その他

・文章をかく方法として「こざね法」という、カード(単語、節、文がかいてある)を論理の筋道や内容の類似度によって、ホッチキスで止めて、見出しをつけて、それをさらに配列する....という方法があるが、これはKJ法の簡易版である。だから「発想法」を読んだほうがいいよ、と言ってしまっているのがまた奥ゆかしいところ。

・天才感が迸りまくってる御大も、自認としては凡人らしい。

(引用註:こざね法の利点について)
文章という点からいって大切なことは、この方法でやれば、だれでも、いちおう論理的で、まとまった文章がかける、という点である。
天成の文章家には、こんな技術はまったく不必要であろう。これは、凡人のための文章術である。

しかし、文章は天才だけが書いておればいいのではない。文章をかく能力を、
失文症や文章アレルギーをおこしている凡人の手にも、とりもどさなければならないのである。
(p.205)

ここらへんの、「いちおう論理的でまとまった文章がかける」状態を担保しておくことへの問題意識は、
なんか下の対談の、宮本茂を彷彿とさせる。
第10回 流れているほうがいい。 - 宮本 茂 × 糸井重里 ひとりではつくれないもの。 - ほぼ日刊イトイ新聞

質問者(糸井の部下):
それは、あれですかね?
宮本さんも糸井さんも
「大きくバケた」という経験が豊富だから、
その経験が乏しい人は、
覚悟を決めてアクセルが踏むことができない、
というようなところがあるんですかね?

糸井:
うーん、でも、小さい規模のことでも
同じことが起こりうるんだよ

宮本:
そうですね。
あの、よく言うことなんですが、
川が淀んでいるのと、川が流れてるのって、
川の大きさは関係ないんですよ。
流れる水の量の話をしたいわけなので。
(中略)
基本的に、どんな川であっても、
深くても浅くても広くても汚くても
「流れているほうがいい」と思う。
だいたいダメなときって、
「流れてない」んですよ。
そういう川をいくつもいくつも見てると、
「あ、これは流れる可能性あるよ?」とか、
そういうことがわかってくるんです。

(中略)
でも、そうですよね?
流れてたら、そこからこぼれたものが
薄くても、濃くても、利益になるんです。
そういう意味で、その企画が「流れてる」なら、
「利益薄くてもいいん違うの?」
という話ができるんです。
逆に、いろんなビジョンが描けたとしても、
まず「流れてない」となにも起こらないので、
利益の話をするまえに、そっちなんですよ。
「ずっと後で、これだけ回収して帳尻が合います」
って言われても、ねぇ‥‥

結論

宮本茂ってやっぱ神だわ。
まぁいろいろもっと深い読み方はあるんだろうが、これくらいで終わりにしとこう。仕事もあるからね。

Enjoy!!