論理の流刑地

地獄の底を、爆笑しながら闊歩する

『日本の経済学史』(橘木, 2019)

日本の経済学史

日本の経済学史

Introduction

わたしは工学部ヒラノ教授シリーズの信者であるし、研究やその周辺で多大な貢献をなされた戦前・戦中生まれくらいの大先輩の方の話を聞くのは好きなので、
この本にもそれなりの期待をしていたのだが、まぁその期待は見事に裏切られた。

ヒラノ教授シリーズでよく引用される、研究者の年齢と能力に関する江崎玲於奈の仮説として、以下のようなものがある

ノーベル物理学賞を受賞した江崎玲於奈博士(元筑波大学学長)の観察によれば、
一般的に言って、理工系研究者の独創性は40代半ばにピークを迎えた後徐々に衰え、70歳でゼロになるという
(このトレンドを外挿すると、古希をすぎた老人の独創性はマイナスになるかもしれない)

――「工学部ヒラノ教授の終活大作戦」p.12

なんというかこの本は悲しき哉、その江崎仮説の証左たりえてしまうくらいのクオリティではあるのである。

この本の問題点

  1. これがまず致命的なのだが、単純に推敲が足りてない。誤字や日本語として意味の通らない文があまりにも多い。著者はもちろん、編集者は何をしていたのかと思わせる*1
  2. これを読んでも「日本の経済学史」はわからないし、橘木先生が最近勉強したことをまとめたノートをそのまま出版したような感じである。70~80代に差し掛かった(元)大家が、個人的な勉強ノートの延長版のようなものを出すことは珍しくない。しかしそのような手法自体が悪いわけではなく、同じ「大学者の勉強ノート」系でも竹内啓の「歴史と統計学」は非常に勉強になったことを考えると、この橘木本は「勉強ノートとしての質も低い」と言わざるをえない。
  3. 学史を同時代を生きた人が書いていくというスタイル自体は別に問題はなく、たとえば富永健一『戦後日本の社会学:一つの同時代学史』などは著者自身の各学説への立場*2を、を、その学説の特徴や適用上の問題点を詳述しつつ表明していくことで、読み応えのあるものに仕上げている。本著はどうせならこの富永本のようなスタイルをとればよかったのだが、カバーする時代範囲が長すぎて色々と中途半端になっている

などなど問題点は指摘しはじめればキリがないのであるが、一方で個々のトピックや各学者についての脱線気味の逸話(特に橘木氏が直接指導をうけた森嶋通夫のエピソード)、あるいは大御所だからこそのぶっちゃけた本音の数々は面白かったりしたので、備忘を下に書き留めておく。

印象にのこった箇所の備忘

福田徳三のスパルタ指導について

福田の東京商大での役割として興味のある点は、玉野井(1971)に書かれている次の二点である。
第一に、研究者になる人へのトレーニングは峻烈をきわめていて、毎月3000ページにも達する量の書物、論文を読め、と命じたそうである(p.53)

やべぇ。と思ったけど、インプットだけに割けると考えるとそうでもないといえるだろうか。
いやしかし当時はおそらく読むべき(読む価値のある)ものはすべて独語、英語だと考えるとやはりやべぇ。

なぜ戦後20~30年はマルクス主義経済学が国内の覇権を握ったのか、という点について

第二次世界大戦前(1930年代)の国内の経済学は国家主義派・自由主義派・マルクス主義派の3派が存在しており、
東大においても、その各派が対立しつつポストを分け合っていた。その勢力図としては、

軍国主義を支持する国家主義派とそれに反対するマルクス主義派が、どちらかといえば多数の勢力を誇り、中間にいる自由主義は少数派とみなせる勢力分布であった(p.96)

であったとのこと。ちなみに国家主義派は、統制経済の下で物財の生産量を決定する制度を構想しており「大きな政府」を志向していた。

しかし戦争が終わったのちの日本の経済学は、マルクス主義が大きなプレゼンスを示すこととなる。それはなぜか。
まず戦時体制が進むにつれて、大学のポストから多くのマルクス主義経済学者が排除・粛清されることとなる(pp.77-78)
だが敗戦後になると一転、国家主義派の粛清とマルクス派の復権が進む。

戦後の1945年(昭和20)年の11月になって、東大経済学部はいわゆる国家主義(革新派)グループ、難波田春夫や本位田祥男などの五名の教授・助教授を依頼退職処分にしたし、平賀粛学で土方と連座して経済学部を辞職したグループ四名ほどの復職はなかった。
民主化路線の吹き荒れた戦争直後だったので、戦争協力者、ないし支持派とみなされた国家主義の経済学者の居場所がなかったのである。

一方戦前に大学を追われた大内兵衛などのマルクス主義グループは復職したのであった。これが戦後になって東大経済学部がマルクス主義経済学者によって占められる要因となったのは歴史の皮肉の一つでもある。(p.82-3)

それは自由主義派はどうだったかというと、筆頭格であった東大の河合栄治郎の死が痛かったとのこと。

河合は戦争中に53歳という若い年代で死亡したので、戦後になって東大に復職することはなかった。多くのマルクス経済学者が復職したので東大経済学部はマルクス経済学の牙城になったのだが、もし河合が存命で東大に復職したなら、少しは東大にも近代経済学者が存在していただろう。「歴史にifはない」ので、これは筆者の独り言にすぎない(p.86)

その結果、以下のような状態ができあがるのである。

資本主義国であり、しかも1950年代後半からは高度成長期を達成する経済の強い国でありながら、学問はマルクス経済学者が主流という珍しい国が戦後の日本であった、欧米の経済学者から不思議がられたほどであった(pp.133-134)。

戦後の一定の時期に大学で研究して(あるいはその下積みの時期を過ごして)いた上の世代から、ときおり彼らが若い時分にマルクス主義が一世を風靡していたことは聞かされることがある*3

自分はそれをある種「歴史上の出来事」として当然のように受け止めていたが、よく考えてみれば資本主義(それは確かに社会主義国以上に社会主義と言われた部分はあったにしても)国として順調な成長を遂げていた国の経済学において主流派がマルクス主義だったのはいささか珍妙な事態であったのかもしれない。

日本人が数理経済学においてワールドワイドな活躍を見せた理由

明治期から戦前まではもっぱら輸入に徹していた日本の経済学であるが、戦後特に数理経済学の分野において世界的な貢献をする学者が表れるようになった。
pp.157-161あたりになぜ「数理経済学で日本人が活躍できたのか」という理由が列挙されているのが興味深かったので備忘。

  1. 言語面(=日本人は語学力にして不可避的なハンデを背負うが、数理的な論文は英語力がなくても書ける)
  2. もともと数学専攻だった者の転向があったこと
  3. (理由2に関連して)1930~1950年代における経済学の理論発展により、経済モデルを数式によって記述するようになったことが数学に強い経済学者を惹きつけたこと
  4. 日本の各大学において、数学者と経済学者の協力関係がみられたこと(例として京大における高田保馬⇔園正造などが挙げられている)
  5. 数学好きは論理を好むが、それが当時の経済学における論理優先の潮流と合致したこと

経済学に限らず、文理両道の才が大きく文系分野の諸学問の戦後の発展を推進したことは今野浩スプートニクの落とし子たち」にも書かれていた記憶がある。

ドイツ統一後の徹底した「マルクス経済学者狩り」

東ドイツの大学ではマルクス経済学が研究・教育されていたのであり、統一後これを信じる経済学者の処遇に関して、想像を絶することが発生した。ドイツ政府はマルクス経済学者に対してマルクス主義を放棄しない限り、大学で再雇用しないと決定したのである。ドイツではほとんどが州立大学なので、地方公務員という姿での採用であり、公務員を政治と経済の信条で差別する方策なのである(p.214)。

これは知らなかった。すさまじいの一言に尽きる。

日本の経済学においてアメリカンPh. D.のプレゼンスが多いことの問題点

橘木自身もそうだが、主要大学の主要ポストは米国でPh.Dを取得した者で占められ、学会の主要な役職や政府への提言を行う学者もその中から選ばれることが多い。
橘木は米国の博士の教育の質自体はとても高く評価しているが、一方で以下のような問題点も列挙している(pp.236-239)。

  1. 経済学者を生むためのトレーニングを自国ではなくアメリカの大学院に依存してしまっている
  2. 影響ある経済学者に米国Ph.D.が多いと、アメリカの経済思想が経済学そのものであるとの印象を世の中にあたえかねない
  3. アメリカの経済学は、経済制度としてもアメリカ特有の制度を前提にして経済分析を行うので、「やや誇張すれば、アメリカの経済制度を理想郷と思ってしまうことがなきにしもあらずなのである」(p.238)という危険性。
  4. アメリカの経済学は「細かいことに数学や統計を用いて独創性のある厳密な分析を好む点」があり、「これだと枝葉にこだわった研究(悪く言えばちまちました研究)が中心となり、幹になるような画期的な研究のでてくる可能性が低くなりかねない」(p.238)


また、二つめの問題点に関して、かのロナルドドーアが以下のような警鐘を鳴らしていたそう。

最高のジャパノロジストであるロナルド・ドーアは、日本にはアメリカンPh.D.経済学者が多すぎて、しかもそれらの人が経済政策論議の中枢にいることや、政府の政策決定に関与している姿を嘆いていた。もう少し新古典派以外の経済学にも寛容であってほしいとの主張である。例えば日本ではヨーロッパ流の福祉国家の思想はすこぶる人気がない。これも、アメリカの影響が強くて、それに共鳴する人の多い日本の宿命なのかもしれない(p.238)。

経済学以外の社会科学(政治学なり社会学なり)や心理学とかはどうなんだろう、と考えさせられるテーマであった次第。

森嶋通夫のこぼれ話①:ヒックスのアペンディックス

単に面白かったから書き留めとくだけ。

森嶋の性格を物語る逸話を述べておこう。学生時代や太平洋戦争に徴兵されて九州にいたとき、ヒックスの『価値と資本』(Value and Capital)を何度も読んで、書物が書き込みで真っ黒になるほどであった。価格理論の古典であるが、とくにその数学付録(アペンディックス)が有名である。

森嶋は口癖のように「アペンディックス、アペンディックス」とつぶやいていたほどの好みであった。筆者が大学院生だったころも、「ヒックスのアペンディックスは20回以上も復習せねばならない」と説いていた(p.123)

以前読んだ森嶋通夫の「思想としての近代経済学」(1994年)においては、ウェーバーシュンペーター、そしてケインズには複数章が割かれ高い評価が与えられているが、ヒックスの章はあっさりしていた印象があったので、これは意外だった。

思想としての近代経済学 (岩波新書)

思想としての近代経済学 (岩波新書)

この箇所を読んでから「思想としての近代経済学」のヒックスの章を再読したが、どちらかというと「価値と資本」よりもヒックスが晩年に著した「貨幣の市場理論」や「経済史の理論」を高く評価しているように見える。

該当章において森嶋は、「1963年頃には、彼はもはや『価値と資本』のモデルを正しいモデルとみなさなくなっていた」(森嶋1994: 66)ヒックスが、「彼の結論は、経済学の教科書に典型的な、かけ引きで価格が決まるという市場は、近代社会では全くの少数派であるということ」(同:67)という見解に至ったことを評価している。

「価値と資本」においてはどちらかというと価格調整による需給均衡を重視していたヒックスが、その後数量的調整も彼の枠組みに取り込んだことを評価するのである。特に労働市場において、「公平の要求」が果たす役割に着目したことが大きい、とのこと。

労働市場と土地市場は極めて社会学的な市場である、とヒックスは考える(同:69)

労働市場は人間的ないし社会的な市場であるから、倫理的な要素が介入してくることは致し方がない。
西欧の労働者の主な行動動機は、自分を他の人より優遇せよという利己心ではなく、すべての労働者を公平に取り扱えという「公平の要求」である。
(中略)
公平の原則は社会の同職種の人の間だけでなく、他の職種の人や、他の企業の人との間にも適用されねばならない。
このような場合、他と比べてバランスを失くさないよう労働者を待遇することが、彼らを公平に取り扱っている証になる。

賃金は、職種ごとに、需給関係により自由に決まるのではなく、賃金の相対比は倫理的に妥当な比率でなければならない。
相対比一定の条件下では、たとえ賃金の絶対水準を自由に調節したとしても、すべての職種に完全雇用をもたらすことは不可能である。
(同:70)

このあたりの変節は、橘木が院生として指導を受けていた60年代と、「思想としての~」が書かれた90年代の間に森嶋自身の考え方も変化した、ということなのだろう。

森嶋は同章の最後に、ヒックス自身が(死により)まとめられなかった経済学のありかたを提唱している。勉強になるので写経する。

それでは、このような種々様々の市場をどのように接合させて全経済が構築されているのであるか。
ヒックスはその問題を論ぜずに死去したから、彼の考えは永久に分からない。
しかし私もまた、ヒックスに並行して同じ問題を考えてきたから、私なりの試案はある。

それはこうである。生産物市場は二つの大きいグループに分けることができる。
第一はヒックスの『価値と資本』のように価格の上げ下げで需給が調節されるような市場グループであり、
第二はワルラスのような、価格が費用方程式で決定され、供給量の調整で均衡がもたらされるような市場グループである。
前者は「価格調節市場グループ」、後者は「数量調節市場グループ」と呼びうるであろう。
(中略)
現実の経済では、これら二つのグループが共存しているから、両者が混合した体系のモデルをつくれば、そのモデルがどのように作動するかは、今までの単純モデル(1グループの市場のみから成り立っているモデルーー全市場が価格で調節されると仮定したヒックスの一般均衡モデルと、全市場が数量で調節されると仮定するレオンティエフの産業連関モデルーーの分析を複合することにより解明できるであろう(同:72)。

具体的にどういうモデルになるのかは門外漢ゆえわからないが、論理としては納得できる話ではある。
最近読んだ吉川洋デフレーションー日本の慢性病の全貌を理解する』に出てきたカレツキーの二部門モデル*4の話とも相通じるものがあって腹落ちした。

さらに森嶋は続けて、後期ヒックスは高田保馬と通ずるのだと力説する。

このような複合モデルでは、土地、労働市場では、研究の第一段階では、伝統的なモデルのように社会的要素を一切無視して分析し、第二段階で社会的要素を投入して、結論がどのように変化するかを観察するのがよいだろう

これは、次章で見るように高田が採用した方法である。第二段階は、高田のいわゆる勢力経済学的分析ー彼はもっともエッセンシャルな人間的・社会的要素は人間の勢力意志であると考えたーーである。
ヒックスは最後には、勢力経済学に非常に近いところまで、到達したといえるのである(同:73)。

森嶋通夫のこぼれ話②:数学者の経済学への参入について

ややどうでもよい話題を書いておこう。森嶋通夫は学部時代から経済学を専攻したので、数学からの転向者ではない。森嶋は筆者の大阪大学大学院の学生の頃、数学から経済学に移ってきた人にやや否定的なことを述べていた記憶がある。決して口には出さなかったが、「彼たちは数学の世界で生きていけないので移ったのだ」との暗示があった。逆に筆者は「自分(森嶋)は経済学専攻ながら数学を独学で勉強したのであるから、価値高いよね」と言いたいような雰囲気をやや感じた記憶がある(p.159)

言わんとすることは分かるけど、口には出してないのならばそれは橘木氏の単なる印象である可能性もあるのでは、と心の中でツッコミながら読んだ。

Conclusion

まぁ書き留めとく箇所は本書に関してはこれくらいだろうか。

Enjoy!!


レイニーレイニー 歌ってみたのはメガテラ・ゼロ

*1:大先生に対して意見がいえなかったのかもしれない。気持ちはわかるがそれでは編集者のいる意味がない

*2:富永の例でいえば、マルクス主義への反感がありありと表れているのであるが、その理由をしつこいほど論述しているので読み応えがある

*3:たいていの場合、自分はそれに反感を覚えて~を学び始めた...と話が続く

*4:「カレツキーは、マクロ経済を分析する際には「生産費用によって決まるつくられたモノやサービスの価格」と、一次産品のように「需要によって決まる価格」を明確に区別する必要があることを指摘した」(吉川2013:154-155)