フィリップス曲線ふたたび
◆Outline
(いきなり脱線)
最近息抜き時に内田義彦の『読書と社会科学』を読んでいて、なかなか耳が痛いひとことがあったので書き留めておく。
本は、感想にまとめやすい形で読むべきものじゃない。
(中略)
少なくとも、古典を古典として味読し了解するには、社会科学の本をも含めてそういう読書態度は禁物です。
感想を狙いに本を読んじゃいけない。
感想は読んだ後からー結果としてー出てくるもので、それを待たなきゃいけない。
さいしょから感想を、それも「まとめやすい形での」感想を求めて、いわば「掬い読み」をするかたちで本に接するから、せっかくの古典を読んでも、そのもっともいいところ、古典の古典たるがゆえんが存するところを取りのがしてしまう。
だし柄を拾って肝心のエキスを捨てちゃうみたいなもんです。
ーーー『読書と社会科学』岩波新書, p.54
他にも色々な箴言が詰まった本であった*1。
戦前生まれの碩学の方が大衆の読者向けにかみ砕いて一般的なテーマを扱う本ってなんでこんなに面白いんでしょうね。
- 作者:内田 義彦
- 発売日: 1985/01/21
- メディア: 新書
Introduction
ちょっと趣味と実益を兼ねて、鶴先生(+二人)の『日本経済のマクロ分析』をよんでいた。
色々面白い知見があった(1990年代以降、景気回復と労働需給や物価・賃金、そして企業の設備投資が結びつかなくなっている、など)。
※実証知見のフェーズはむっちゃ面白かったのだが、じゃあどうするの?っていう提言の段になると、人的資本投資!ICT活用!中小企業の活性化!など「いやそれこれまでの分析なくても言えるやんけ」みたいな急速な陳腐化を見せて尻切れトンボに終わるのはeconomistあるあるなのだろうか......
が、すごい初歩的な躓きとしてフィリップス曲線が登場ってなんでこの形になるんだっけっていうロジックが全然思い出せなくて煩悶してしまったので、
浅子ら編著『マクロ経済学』をひもときつつ学びなおす。
一応大学の教養課程で(マクロ)経済はとっていたはずだが、こうやってことあるごとにその知識の「身になってなさ」が露呈するので、若き日の自分の学問への姿勢を叩きなおしたくなることが多々ある日々であることよ。
フィリップス曲線とは
フィリップス曲線とは、賃金上昇率(あるいは物価上昇率)と失業率の負の相関関係をあらわす曲線のことである。
もともとは、1950年代後半に英国の19世紀後半からの100年間のデータにもとづいてW. Phillipsが命名したものである。
だから、はじめは経験的な観察から帰納的に導かれたものであり、理論的な演繹にもとづくものではなかった(浅子ら「マクロ経済学」p.249)。
JILの大塚氏のコラムにもあるように、
この曲線はすごい大まかな含意としては、インフレ問題と失業問題の二律背反を示唆している。
また、経済学内の学説の趨勢にあたえた歴史的影響としては、
1970年代の世界的不況時に、インフレーション下での失業増大というフィリップス曲線に違背するような事象を説明できなかったことが、
ケインジアンの没落(とその後の合理的期待形成学派の勢力拡大)のきっかけとなった。
また脱線するが、ニューケインジアンによる巻き返しが行われる前の
米国経済学における1980年代初頭のケインジアンの悲哀の描写が、宇沢(1989, 『経済学の考え方』p.258)にあって興味深い。
ミネソタ大学には、私の滞在するしばらく前に、ジェームズ・トービンが一学期講義にきていたが、
RE信奉者の妨害にあって、ほとんど講義を進めることができなかったという。そのころ、トービンはアメリカン・ケインジアンの総帥とみなされていて、
ブキャナンの『赤字の民主主義:ケインズ卿の政治的遺産』に代表されるように、反ケインズ学派の攻撃の焦点にいた。
トービンが笑いながら、アメリカの大学院の経済理論の分野での博士論文の80%は合理的期待形成仮説に関係するものだといっていたのが印象的である。
(宇沢 1989: 258)
(注:RE=合理的期待形成仮説のこと。ちなみに宇沢がミネソタ大に滞在したのは1980年)
アメリカは自由の国ではあるけれども、同時に自由の名のもとに相反する思想の間の闘争が繰り返される国でもある、というエピソードであった。
いや、でもさ、そこまでするか。
フィリップス曲線のロジック
上述のとおりもともとは、経験的観測から導かれたフィリップス曲線であるが、理論的に導くこともできる
以下、浅子ら「マクロ経済学」(pp.249-250)にもとづく。
を事前的労働需要量*2とし、を事前的労働供給量とする。
そして実際に実現した雇用量(事後的労働雇用量という)をとする。
失業率はで、未充足求人率は(Vはvacancyの略ですね.)となる。
すると、労働市場における事前的な超過需要量(あらかじめ採りたい量-あらかじめ雇われたい量)は以下のように変形される
ここで仮定:「NとVは短期的に所与である」をおけば、超過需要量は失業率と負の関係を描くはずである。
さらに仮定:労働力への超過需要は価格=賃金の上昇につながるを追加すれば賃金水準←(正の相関)→超過需要←(負の相関)→失業率、となる
これにて、フィリップス曲線を支えるロジックが完成した。
仮定が多いやん!ってなるけど、経済学に限らず社会科学ってのはいわば”モデルの学”なので、つよい前提をおくことによって対象の(まさに”経済的"な)説明が可能となっている、ということを理解せねばならない。
これにさらに仮定:物価水準と賃金水準は安定的に正の相関にある、を付け加えると物価版フィリップス・カーブも導かれる。
日本におけるフィリップス曲線のフラット化
ちなみに、鶴ら(2019:104-105)はフィリップス曲線のフラット化を、
観測時期を①1970~80年代②90年代以降、のふたつに区分したうえで回帰直線をひくことで、わかりやすく図示している。
Y軸に物価の指標として消費者物価指数、Y軸に「労働力調査」からとってきた完全失業率をとると、
①の時期にはシャープな負の係数推定値(-7.663)だったのが、②の時期にはかなりX軸と並行に近い傾き(-0.610)になっている。
同書の第三章で明らかになっているように、
ここ30年ほどの日本は景気循環⇔有効求人倍率(=)の連関も、景気循環⇔物価の連関も弱くなっているので、
曲線がフラット化しているのは論理的な帰結といえるだろう。
Conclusion:何が仮定されているのか?が大事
あらゆる社会科学的説明というのは、基本的に「モデル」にもとづく。
そして、モデルによって変数の数を減らし「思考の経済」を実現するうえでは「何を前提としているか」の設定と(経験的反証を可能とするような)明示が重要となる。
(最近読んだ「統計学を哲学する」においても、帰納推論を可能とするには存在論的仮定(統計学においては、自然の斉一性の仮定としての確率モデル)が必要であることが指摘されていた)
上で述べたように、フィリップス曲線が想定通りの形状であるためには、
- N(雇用の実現数)とV(未充足求人率)が所与であること
- 労働の超過需要が賃金上昇をもたらすこと
- 物価と賃金の正の安定的相関があること
という三つの仮定が必要となってくる。
この三つの前提(とくふたつめ)が崩れてきている近年、フィリップス曲線が観測されないのは当然のことである。
また、未充足求人率Vが一定という前提①も、需給のミスマッチ状況の悪化/改善によって変動しうる。
そして鶴ら(2019:110)のUV分析の結果が示す通り、需給のミスマッチ状況は近年高まっている。
しかし、それは理論の欠陥を示すものではなく、「前提が崩れている状態で理論が妥当しなくなっている」という事態が起きているというだけのことで、
そもそもの前提条件が経験的反証が可能な形で提示されている時点で、それは説明理論として十分な価値がある。
Enjoy!!