簡単な記録を続けて自分自身に関する長期観測系列をつくっていこう、という話。
Introduction
自分の心と身体をうまく扱うために
最近、たまたまほぼ日の二つの記事を読んだ。
ふたつの記事とも、心の病に襲われ絶望しながらも、うまく付き合う術を体得し、自分たちの持ち場でうまくやっていくことを実行している人たちについてのものだ。
田中圭一氏と小谷野選手に共通するのは、
- こまめに記録をつけていたことが心の病による苦しみからの好転を支えていたこと
- 心の病を「そこから完全に抜け出すべき悪弊」として捉えずに、うまく共存していく方法を模索したこと
の2点である。
自分は精神的に強いとか健康だとか思っていても、自分の予期しない・制御できない不幸や災厄に見舞われ、心理的不調の隘路に陥ってしまう可能性自体は誰にでもある*1のではないだろうか。
だから、過去に心を壊してしまったりして不安要素をかかえている人でなくても、自分なりの心の調子を平常時からこまめに情報として記録としていくことは、とても価値が高い。
それはなぜかというと、いざ心の調子を崩したときに健康であったときとの「偏差」を知ることができるからだ。
少し話は脱線するが、「平均人」の概念を提唱したことで有名な19世紀の統計学者ケトレ(Wiki)は、以下のような面白い指摘をしている
- 作者:竹内 啓
- 発売日: 2018/07/25
- メディア: 単行本
医者は病人を診察してどこが異常であるかを見るとき、平均人を参照せざるを得ない。
しかし、それはある場合には重大な過ちを起こすかもしれない。それは多数の人に関する一般法則を個人に適用すると本質的な誤りとなることがあるからである。
医者がわれわれ個人の身体の正常な状態を知っておくように、健康な状態にあるときにも医者にかかっておくことは有用である。―竹内啓『歴史と統計学』(pp.191-192)
自分が心や体の健康を損なったときはじめて病院に行けば、医者は「みんなの健康」と比べて診断をせざるを得ない。
しかし本来、傷の大きさや回復の度合いを測るうえで重要なのは個々が健康であったときの状態=「彼 or 彼女自身の健康」との乖離である。
身体面の特徴においてさえ個人差は大きい。その指標化・可視化が難しい心的状態はなおさらであろう。
だから、心が正常に動いているときから、その記録をこまめにとっておくのはリスク管理としても重要である、と個人的には考えている。
生産性・効率化のための日報/週報との両立性
日報や週報自体は、たとえ仕事上で義務となっていなくても*2生産性のためにつけている人は多いと思う。
例えば、以下のような記事には日報をかくうえで抑えるべき要素・形式・要件などがまとまっている。
(探せばこのような啓蒙・指南の記事は、それを読むだけで数日・数か月かかるほど出てくるだろう)
各々が日々向き合っている課題や職業上の環境に応じて、適切なフォーマットや記録すべきものの方針は変わってくるので、その部分は各々の考えでカスタマイズをすればよい。だが、仕事に関する情報と同時に身の健康に関する情報もこまめに変化を記録・追跡しておくことの重要性というのは、看過されやすいのではないだろうか。
純粋に記録のみを目的にした日報/週報というのは、おそらく存在しない。
計画(目標と、その達成を測るための指標、そして必要なタスクの構造とスケジュールへの割り振りをしめす)とその進捗、あるいは作業によって新たに得た情報などが日報/週報に記載する主たる項目となるが、なぜそれらを記録するのが常道となっているのかを考えると、それらが生産性と関連のある変数であると思われているから、であろう。
であるならば、心身の健康状態もそれらの情報と同じく、生産性や成果を大きく左右する変数であるので、日報/週報に記録されるべき対象となるのではなかろうか、というのが私の問題提起である。
一方で、うつ病や各種の精神的な病に対する療法のひとつとして、心的状態を手帳・日記等に記録することを推奨するアプローチは旧来から存在している。
他方で、作業計画やその進捗、その他の気づきやアイディアなどを日報/週報に記し、生産性向上やスケジュール予測に役立てようとする提案は上述の通り枚挙に暇がない。
しかしその交差路にあるべき発想、すなわち、生産性や成果をあげるためにこまめに心的・身体的なコンディションを記録する、ということはあまり重視されてこなかったのではないだろうか*3。
もちろん難点があることもわかる。特に、業務の一環として日報/週報を書いている場合は、社内やチーム内での共有が前提となるから、そこにとてもプライベートな性質をはらむ情報である心身の健康状態をこまやかに記録するということは、少しハードルが高いし強制されるべきものでもないだろう。
しかしそのような困難があるとしてもなお、何らかの形で、作業の遂行や生産性に関する情報と心身の健康状態に関する情報を一緒くたに並記して、自分なりのデータベースとして時間経過とともに蓄積していくことは、長期的にみて価値が大きいと考える。
職業柄、具体的な仕事の情報をprivateな情報記録媒体*4に記録していくのが難しい場合は、心的状態を記録している私的な日報に、以下のような大まかなパフォーマンス指標を併記していくとよい。
長期系列として自分の長期的な調子の変化を観測可能にするためには、なるべく記録にかかるコストは低いほうがよい。
したがって、定性的な記入形式(テキスト)ではなく、(そこまで厳密でない主観的なものでよい*5ので)数値による記入が可能な指標による記録を推奨する。
◆主観的なパフォーマンス指標(例)
- 総合評価(10段階, 主観評価)
- 事前に何個のKPIを設定したか?
- KPIのうち何個を達成できたか?
- 稼働時間(率)はどれだけか?
- 今後につながる新しいアイディアは発見できたか?
- 新たな発見できた場合、それは何?
- どれだけ楽しめたか?(N段階)
- どれだけ集中できたか?(N段階)
- 集中できなかった場合、阻害要因は何だったか?
- 大きなミス・失敗をしたか?
- 解決策が見つからない新たな課題にいくつ直面したか?
※主観的な評価指標項目は、自分が細かすぎるとか粗すぎるとか思わない適当なカテゴリ数に設定すればよい。
◆ネガティブなイベントの影響の深さと持続性を記録する
あまり反芻してもどうなの、それ自体がメンタルに悪影響あるんじゃないのって言われそうではあるが、上の記録項目のなかにはいくつかのネガティブなものが含まれている。
これは、ネガティブなイベント自体を少なくしよう、という意味ではなく、仕事上のネガティブな事象が起きたときに、自分のパフォーマンスがどれくらい落ち込むか(=影響の深さ)、その落ち込みをどれくらい引きずるか(=影響の持続性)という二点を可視化しておくことが、自分の生産性を管理・予測・向上させていくうえで有用だからである。
(当然のことだが)完全に社会の影響から隔絶した状態に自分を置くのは不可能であり、ゆえに(たとえ自分が細心の注意を払っていたとしても)偶発的な要因や外圧などにより負の影響を与えるようなイベントに出くわすことは避けられない。
だが、ネガティブなイベントの生起がどれだけ生産性に影響を与えるか、そして影響がどれだけ持続するか、という点を一つの観察対象として客体化・データ化してしまうことで、必要以上にネガティブなイベントを恐れることから一歩進んで、それを「管理・分析の対象」としてしまうことができる。
健康状態→仕事の生産性という影響経路だけなく、仕事→健康という逆の作用も当然あり、概して仕事と健康の関係は相互規定的だ。
だから、両方の情報を同じ時間の単位のなかで記録して、各時系列間の相互の影響過程を分析可能にしておくことは大事なのである。
◆己の状態を0/1でなく段階的に把握することの重要性
上であげた項目の中には、集中力の自己評価指標が入っている。
これは、該当の時間単位について、主観的に「どれだけ集中できたかを」N段階*6で評価するものである。
何らかの計測に基づかないという意味でこれはまったく「客観的」ではないのだが、「0か1か」ではなく、よりグラデーションをともなった段階的な把握をこまめに自分の集中状態に対して行っていく、ということはそれ自体で意味があると思われる。
大昔に読んだ*7齋藤孝氏の「"できる人"はどこが違うのか」という本のなかで印象に残っている箇所として、齋藤氏が「集中力とは"意識のコマ割り"のことである」と述べる箇所がある。
- 作者:斎藤 孝
- 発売日: 2001/07/01
- メディア: 新書
氏曰く、集中力とは、(映画やアニメにおける)コマ割りに例えられるような、"一秒間あたりの思考・判断のテンポ"のことである。
氏曰く、自分の意識のコマ割りの速度を細かく把握することを習慣化すること、自分のなかに10人の小人がいるとしてそのうち何人が働いているか、ギアはどの段階に入っているか、ということを常に意識しておくこと、により集中力のチューニングの感覚を「技化」することが重要であるという。
「集中力とは何か」という定義は各人がプラクティカルな意味で有用なものを見つければよいと思うので*8、齋藤氏の定義自体の妥当性についてはここでは論じない。
(あと、個人的にはどれだけ感覚自体を鋭敏にして可視化したところで、それが集中力の水準を意識の管理下におけるようになる、という見方には懐疑的である)
しかし、
- 「集中できている/集中できていない」という二分法でなくグラデーションをもって自らの意識状態をとらえること
- それをこまめに、継続して記録していくこと
の2点は普遍的な有用性をもつのではないか、と思っている。
それはなぜかというと、離散的ではなく連続的に集中力をとらえることで、自分の心的状態の「平均」だけでなく「分散」を可視化することができるからだ。
少し話は変わるが、DAZNで元日本代表の内田篤人氏がやっている「Football Time」という番組がある。
去年の暮れ、元鹿島の岩政氏がゲストだった回で彼ら二人が「メンタルの強さ」とは何かというテーマで討論していて、二人が一致した点があった。それは、
- メンタルの強さとは、テンションの高低に関係なく、"振れ幅"が少ないこと。感情の起伏が小さく、平坦に近いこと
という見解である。
それが苛烈な上昇志向であれ(例:本田圭佑)、あるいはナチュラルで穏やかなテンション(例:遠藤保仁)であれ、とにかくテンションがなるべく平坦に近い状態で居続けられることが、真に重要なことであるという。
だから心の強さというのは水準の問題ではなく波の大きさの問題であると、内田氏のなかではとらえられている。
こういう見方に立った時に、集中力に限らず心の色々な調子を、0 or 100ではなくグラデーションでとらえていくことは有効だと思う。
集中できた/できなかった、という二分法にもとづく記録を蓄積していったとして、後から分かるのは「どれだけの割合で集中できたか」という点だけである。
だが、"振れ幅"こそが重要だという観点からは、「なんか今日は集中できないな~」となった時に、調子・パフォーマンスの下げ幅をどれだけ極小化できているかが重要となってくる。
だから、普段集中できている状態を10としたときに、1まで落ちてしまっているのか、4までで何とか押しとどめられているのかを、把握できるような形式で記録していくことが重要である。
したがって、(多少厳密性を欠いていたとしても)自らの心的状態をグラデーションをもった尺度で記録していくことは、とても価値が高いのである。
また、副次的な効果についても話しておきたい。
うつ傾向と完璧主義的な思考は一般に相関すると言われており、そこには「0か100か」「白か黒か」という極端な二者択一式思考形式が関わっているという研究もある。
自分の心的状態やパフォーマンスを「できたorできない」「良いor悪い」の2分法で捉えるのでなく、よい・わるいの間に多くの段階的な濃淡を見出していくことを記録の習慣化によって継続することとは、それ自体が完璧主義者の陥穽の回避につながるのではないか、ともいえるだろう。
心の状態をどうやって記録していくか
以上、心的状態を日報/週報としてつけていくことについての問題意識やそのベースとなる考え方について記してきた。
続いて、実践の具体的方法について述べていきたい。
記録すべき項目について
◆心身のコンディションの何を記録するか?
心理的なコンディションにかかわる変数として何を記録してゆくべきかについては、以下のブログ記事がとても参考になる。
tokin-kame.hatenablog.com
この記事を書かれた方は、自身のうつを克服するために記録用のアプリをつくり、なんとRで時系列分析まで行っている*9。
この記事において、コンディションそのものに関する変数としては、総合的な調子の良さ、憂鬱感、不安感、気の重さ、眠気、頭痛、倦怠感、活動具合などを数段階の順序尺度として設けられている。
また、調子の高低を説明する変数として、仕事の活動具合、起床/就寝時間、曜日、天気、記憶、薬の種類・量、気圧なども同時に記録している。
心身のコンディションを形成する要素のうちのどの側面をコントロールやモニタリングしたいかというのは個々人によって違うので、上記の指標群をそのまま踏襲する必要はなくて、適宜つけたしたり削除したりすればよい。
たとえば、心的コンディションの項目としてはイライラの度合いを、関係しそうな変数としては、他人とのコミュニケーションの量やそこから受けた印象(正か負か)やその日の運動の時間・量などが追加的変数の候補として考えられるだろう。
いずれにしても、調子の良いor悪いを単一指標でとらえるのではなく、いくつかの指標をつくっていくアプローチは参考になるのではないだろうか。
また、記録自体はすぐに終わるように、なるべく文章では数値で記録できるような尺度を中心とするのが良いと思う*10。
◆パフォーマンス面の指標についての基本的指針
また、仕事や学業など個々人のパフォーマンスに関する項目は上に挙げたようなもので良いと思う。
少しだけ重要な点を補足・強調しておくと、長期的な観測を前提とするなら、あえて記録すべき項目をあまりタスクの内容に即した形で定義せずに、一般性のある簡素な形式での記録していくほうがよい。
厳密に考えていく方向性でいくなら、たとえば「論文をN本読んだ」と「業務上の事務連絡をN本こなした」と「プレゼン用のスライドをN枚作成した」と「データ分析でN個の仮説を検証した」とでは、それぞれタスクの性質も負荷も全然違ってくるだろう。
だから、タスクの種類を超えた領域普遍的な生産性の指標を厳密に作成・測定しようとすると、違う種類の仕事の成果の間の「変換レート」を真剣に考えなければならなくなる。
しかし、そのような指標をつくりあげるのはとてもなく難しいし、その割にリターンも少ない。
よっぽど固定的な状況に置かれた職業でない限り、従事する職務の内容というのは変容していくから、その都度指標の妥当性を再検討するのは単純にとても大変である。
ゆえに、上に挙げたパフォーマンスに関する指標では、
- 事前に何個のKPIを設定したか?
- KPIのうち何個を達成できたか?
- 稼働時間(率)はどれだけか?
といった、一見「ちょっと漠然すぎるんじゃないの?」と言われそうなくらい粒度の粗い項目をおいている。
タスクの個々の差異にまで立ち入らず、「どれだけたくさん目標を立ててトライしたか」「そのうちどれだけを達成できたか」ということだけを淡々と記録していくスタイルだ。
もちろん「これだけでは何も測れていないじゃん!」と違和感が生まれてしょうがない人は、より精密でタスク特化した指標を個々人で立ててカスタマイズしていけばいいんですが、(私のような)ズボラで長期継続した記録をとっていくだけでハードルが高く感じてしまうような人はこれくらいの粒度からはじめていくことが得策かと思われる。
どの単位での「変化」をみるべきか(日内変動について)
心身の状態とその変化を記録していく時間的な単位についての話。
この記事のタイトルに「日報」と入っているので、「そりゃ一日単位じゃないのかよ」とツッコまれそうである。
しかし、心身の調子に関して、日間(between)の変動だけでなく、日内(within)の変動が大きいのであれば、その日内変動における規則性の発見も、長期観測にもとづいて取り組むべき一つの重要な課題となる。
いっぽうで、あまりにも記録をとる時間単位を細かく設定すると、記録することだけで疲れてしまう、という本末転倒なことになりかねない。
だから、心身のコンディションに関しては一日を4つくらいに大まかにわけるとよい。たとえば、
- 午前中(~AM12時)
- 午後(AM12時~PM5時)
- 夕方(PM5~9時)
- 深夜(PM9時以降)
といった具合である。
あくまでもこれは一例であって、たとえばAM4~5時に起きて早め早めに仕事を済ませてしまうような超朝型な人は午前中を二つに分割したほうがいいだろうし、逆に超夜型の生活をしていてAM3時過ぎまで仕事をするのが常態化しているような人は深夜帯をさらに分割すべきかもしれない。
心身のコンディションに関する記録を一日よりも細かい粒度でつけていくことで、日ごとの調子の違いだけでなく、日内変動における規則性やその背後の要因を明らかにことに役立てられる。
記録用のツールとしてなにを使うか
結論からいうとこれは「長期的に継続しやすいデジタルツールならばなんでもよい」ということになる。
ExcelでもNotionでもEvernoteでもSlackでも数多ある日報用のアプリ*11でもいいし、なんならメモ帳でもよい。
別にアナログな記録媒体を目の敵にしているわけではなくて、
- 心身のコンディションに関する情報を(できれば生産性に関する情報・変数とともに)記録していく
- 記録が活用可能なデータとして蓄積したところで、①心身の健康状態の変動における規則性やその背後の要因 ②心身の健康状態⇔仕事上の生産性の相互影響、を分析する
という二つの段階のうちの後者=蓄積したデータの活用、という段においてデジタルな形式で記録をとっているほうが格段に工数が短縮される、というだけである。
(さらにいえば、なるべくテーブル形式で記録できたほうが後々分析しやすくて望ましい)
ただ、上述のように職場で用いているPCや日報ツールに自分のプライベートな情報としての心身の健康を記録することができないor抵抗がある、という状況も考えられるだろう。
このような、リアルタイムに仕事中に開くことが許されるデジタル媒体に心身の健康状態に関する情報を記録していく難しい場合は、手帳やノートなどのアナログ媒体を補完的に活用するのはありだろう*12。
自分の生活誌全体を"随時更新型アウトプット"として捉える発想
心身の健康状態に関する記録を継続してつけることについて、その効用と実現の際の留意事項について記してきた。
あとは、これを続けるために基本的な考え方のスタンス的なものについて、(蛇足気味だが)述べて終わりとする。
この節で述べることを短くまとめてしまうならば、それは「長期にわたる自分の観察記を一冊の本のように考えて、それを随時加筆・更新していく」作業として日報をつけていく、ということである。
↓随時更新型アウトプット、という考え方について書いた記事↓
ronri-rukeichi.hatenablog.com
「同じことの繰り返し」ではなく、ひとつの長編の加筆・編纂と捉える
自分はマメかズボラかでいえば圧倒的に後者に属する人間であるため、正直言って毎日記録をつけることは割と大きな苦痛である*13。
その理由は複合的で一つではないのだろうけど、(継続したときに蓄積される記録自体の価値は理解していたとしても)ひとつひとつの記録をつけていく行為自体が「単調で非創造的な作業の繰り返し」に思えてしまうことが大きく作用しているように思う。
「きょうの記録」をとる作業を反復・継続する、というよりは「一つの長編観察記」を完成させるような感覚でいるほうがよい、ということである。
「ドラゴン桜」15巻で、スランプになった水野(東大受験生のひとり)を主人公桜木*14が立ち直らせるために、彼女に、一年間分の学習記録を手帳に書き写させるシーンがある。
- 作者:三田 紀房
- 発売日: 2006/09/22
- メディア: コミック
作品内では、水野はこれまでの学習記録を書きとりながら自分の頑張りを想起・確認しながら涙を流し、「私...頑張った」「最後までやり抜いてみせる」とスランプを脱する*15。
まぁ実際にそこまで「記録の確認」という行為自体に感情面を支える劇的な効果があるかは別として、その背後にある論理については、割と納得性のある説明がなされている。要点をまとめていく。
- 受験生の不安の根源は、「勉強してきた成果を目で確認できないこと」にある。
- 受験生はいくら勉強しても足りているか不安を感じるので闇雲に勉強するが、それは「ザルに水を溜めようとする」ようなものである
- その日勉強した内容をその日のうちに手帳に記録していくと、それはザルではなく「桶に水を溜める」ことに相当する。
- ザルではなく桶という比喩は、「桶ならば溜まっていく様子とその分量を目で確かめられるし、一杯にする喜びも味わえる」という理由である。自分が費やした時間とそこで得た知識量を確認することが、(不安の解消やモチベーションの継続を介して)成長に大きく貢献する。
ドラゴン桜は受験漫画だが、これは(特に労働と成果との関連性がわかりにくいホワイトカラーの)職業生活とそこでの努力の継続についても同じことが言えるのではないだろうか。
特にフルタイムで就労していると、どうしても仕事以外のインプット/アウトプットに使える時間というのは細切れになってしまうし、なかなか万全のコンディションでないときに取り組まざるを得ないことも多くなる。
だが、たとえば長期的に観測できる(粗い)達成指標やその作業量を記録しておくことを継続して、成功までのひとつの成長譚の(文字通り)1ページを書き加えているような感覚を持てるようにすることが、そのような逆境における踏ん張りの動力源となる。
また、同じ時間の粒度で、心身のコンディションの記録をつけているのであれば、「同じくらいの心身の疲労度でも以前より高い水準(時間、アウトプットの量などで測る)で努力できている」ということも分かる。
社会人を長くやっていると立場も環境も変わっていくなかで、必要な知識や努力の種類も変容していく。
しかし、その一方でそのインプットやスループットの努力が実際の仕事上のアウトプットに活きてくるまでは時間的なラグがあることも多く*16、そのような場合にモチベーションや努力水準を継続するのは、加齢による心身の衰えなども考えると正直めっちゃ大変である。
日報をひとつの自分自身の長期観測記録や成長記として考えて、そこへの加筆・修正をこまめに行っていくことは、そういった状況をうまく乗り切るような効用もあるだろう。
"ラップを刻んでいく"感覚で日々を「更新」する
前節の最後のほうの話と若干かぶるが、同一の項目を長期間にわたって記録する、ということの効用についてどう考えていくかという話である。
一定の時間間隔において自分自身を観察していると、その単位時間における「できること」の量や質の変化が可視化できる。
「できないことができるようになる」「同じことをこなせる速度が速くなっていく」という成長の実感というのは、年齢を重ねても日々の活力の源となりうる根源的な喜びである。
かつて初めて自転車に乗れた時に無上の喜びを感じたように、リフティングの回数が伸びていくたびに世界が広がっていく感覚をおぼえたように、きのうの自分よりきょうの自分がより多くの新しいことをできるようになっていく過程は、それ自体が生きることの動力源や理由になりうる。
かの天才小野伸二も、インタビューで以下のようなことを言っていた。
小野:誰もが難しいと思うことを簡単にできるということが、僕のなかでは楽しみというか、どんなことでも簡単にやっちゃう、簡単にやるということがボールを操る楽しさですね。
ー 簡単なことは?
小野:簡単なことは当たり前にやる。簡単なことが一番難しいですけど、それは当たり前にやらないと次に進まないんで、簡単にできることを当たり前にやれるように努力する。そこからだんだんとステップアップして、難しいことを簡単にやる
ただ厄介なのは、大人になってからの努力はその結果との対応が分かりにくいことが多い、ということである。
大人になってからの努力とアウトプットとの間の対応性は、スポーツや音楽、学校の勉強ほどわかりやすくない*17し、自分がどれだけ前に進んでいるのかを把握しにくい。
一日やその中の数区間といった決まった時間間隔での記録を長期継続することは、この問題に対する一つの解決策になりうる。
一定時間あたりの成果や努力量を刻んでいくことは、長距離走における"ラップタイム"のようなものとして捉えられるのである。
上述のような形式で、一日を4期に区分して、心身のコンディション指標とともに稼働時間やKPIの達成度合い、作業の内容などを記録しておけば、たとえば半年前と現在を区別して、同じ「心理面のコンディションが悪い日の午前中」でもどれだけのことがやれているか、といった形で過去と現在を比較することが可能になる。
過去と現在の間に良い変化が起きているのならば、その延長線上にさらなる成長を見出していけばいいし、もし悪化しているのであれば、それは何か原因について検討すべきだとうサインになる。
長期的な自分自身の観測記録をつけていくことは、こうやって自分の成長やそこに至るまでの努力をより短期スパンでの比較により可視化する、という事にもつながるのである。
日報(記録)を長期的に継続していくことは、一つの大きな物語を少しずつ形成していくようなものとして捉えられるんだけど、ひとつひとつの歩みの変化も同時に楽しんでいきましょうよ、というマインドですね。
おわりに
中高生のときよく聴いていた曲のひとつにbump of chicken*18の「カルマ」があり、そのなかでも耳に残っている印象的な部分として、
"数えた足跡など気づけば数字でしかない
知らなきゃいけないことはどうやら1と0の間"
というフレーズがある。
たぶん自分が10代のときは字面通りに受け取ってそれはそれで何かしらの刺激を受け取っていたんだろうけど、今聴くとまた別の印象を覚える。
それはひとことでいえば、「足跡を"数えられる”ようにすること自体が結構大変だし、まず1と0で表せることは何かを知らねばならない」ということである。
Enjoy!!
*1:もちろんそういうことに縁のない人はそれで幸せなのだから、縁がないまま人生を全うできるのであればそれはそれでよい
*3:身体的状態に関してはアスリートは除く。
*4:アナログ/デジタルを問わない
*5:より具体的にいえば、比例尺度や間隔尺度でなく、順序尺度でよい
*6:個人的には7~10くらいのカテゴリ数がよいかなと思っている
*7:読んだのが昔であるだけでなく、今手元にないので細かい記述についての記憶はおぼろげであるのだが...
*8:全然別の話題として、学術的な文脈(心理学の研究とか?)で集中力をどう測っているのかは気になりますが
*9:単純にすごい。この可視化への執念と努力は尊敬に値する。
*10:テキストによる定性的な記録は義務的なものではなくあくまでoptionalな位置づけとしたほうがよい、ということ。定性的な情報だと長期的変化を把握しづらい。
*11:「おすすめ 日報 アプリ」とかで検索すると無限に出てくる
*12:手帳でスケジュールを確認しているふりをして健康状態をつけるなど。項目名をいちいち書き出す時間を短縮するために、あらかじめフォーマットをコピーして手帳とかに貼っとくとよい。
*13:大学生(20歳前後)のときや、社会人になった当初など、いくつかのタイミングで日記をつけようとしたことがあるが、だいたい三日坊主で終わっている
*14:学校再建のために東大合格生を出すことをめざしている弁護士
*15:正直若干大袈裟な感じはするが、それはフィクションなので。
*16:特により高度な仕事になってくると、複数の領域の知識があってはじめて新しい価値が生まれることも珍しくない。
*17:多くの場合に努力と成果との間に、自分の意志で動かせない他人や環境の作用といった不確定要素が絡みやすいため