ここ1か月半くらいで読んだもののうち、記憶に残ったものについて少し備忘*1。
まとまって要約するというよりは、印象的なところを抜き書き。
読書はだいたいいつでもしているんだけど、ここのところ読んだ物は印象的なものが多かったので。
読んだそばから内容の7割くらい忘れる鳥頭なので、本当はもっとマメに記録とったほうがいいとは思うんですが、ものぐさなもんでね...
- 『語学の天才まで1億光年』(高野, 2022年)
- 『マスメディアとは何か:影響力の正体』(稲増, 2022年)
- 『パーソナリティのHファクター』(Lee and Ashton, 小塩監訳, 2012=2022年)
- 『旅する力:深夜特急ノート』(沢木:2008)
- 『セシルの女王』1-2巻(こざき亜衣:2022年~)
- 「人間の土地へ」(小松由佳, 2020年)
- つぎ消化したい積読
『語学の天才まで1億光年』(高野, 2022年)
- 中学か高校のときに学校の課題で『ワセダ三畳青春記』を読まされて衝撃を受けてからかれこれ10年以上私は高野秀行さんのファンなのだが、それを差し引いても今年読んだなかで文句なしのマイ・ベスト。
- アフリカ、アジア、南米など至るところに冒険し「辺境ライター」として生きてきた高野さんは、「語学のセンスがない」という自己認識がありつつも言語習得にのめり込み、多くのマイナー言語を含む数十の言語を「魔法の杖」として勉強してきた。そこでの発見を若い頃の面白エピソードとともにまとめた、いわば語学青春記である。
- 何を隠そう自分は本当に語学が苦手(特にリスニングが壊滅的で、若い頃英語の議事録を取らざるを得なくて死んだことがある)なので、高野さんの著作とはいえ楽しんで読めない可能性も少しはあるかもと思っていたのだけど、完全に杞憂だった(くらいすごい本)。食わず嫌いせず英語をちゃんと使えるようにせねば、と思えた。
- 短くまとめるつもりだったけど、あまりにも好きな本なのでどこかで時間をとって別の独立した感想記事にするべさ。
『マスメディアとは何か:影響力の正体』(稲増, 2022年)
- メディア効果論の気鋭の学者さん(お父さんも当該分野の有名な研究者というサラブレッドらしい)が出した新書。いやー、これも物凄い勉強になったし、門外漢だけど(門外漢だから、かもしれないけど)たいへん面白かった
- 「「メディアを疑うこと」を疑う視点」の重要性を説き、「マスメディア"への"ステレオタイプを鵜呑みにするな」と熱く主張する筆者は、たまに”マスメディア擁護派"と言われることもあるそうだが、一読した感じニュートラルで慎み深い姿勢を保っているようには感じられた。単純な悪玉論では理解も改善も進まない、というスタンスなのだろう。
- 昔、別の学者さんの本で「"メディアは信用できない"という情報や認識を、我々はまさにそのメディアを通して受け取っている」という旨のことが書いてあってハッとしたことがあったのだが、数年ぶりにそれを思い出した。
- SNSのアカウントを持っていれば目にしない日がないメディア批判(ex. 「マスゴミは~」「御用 or 左翼メディアが~」)の前提には、「メディアには強大な影響力がある」という我々の認識があるわけだが、まずその前提が本当に正しいかどうかについて、実証的な研究を参照しつつ勉強していきましょうという本である。
- メディア効果論の発展の歴史に沿って、原初的な強力効果論の紹介(第一章)→ いやいやメディアはいつでも効果を持つわけじゃなくて、それなりに条件が揃わないと人々には影響を与えられないよとする限定効果論(第二章)→ なぜメディアは過大評価されるのか、への説明(第三章)→ やっぱメディアの影響力って無視できないんじゃ?という「新しい強力効果論」(第四章)→インターネット時代のメディア効果論についての紹介(第五章)→メディアの未来への展望(第六章)、と非常にわかりやすい構成で、ひとつひとつの研究例がとても面白く勉強になった。ので、各章について簡単に要約&感想。
- 第一章:強力効果論とその実在性についての懐疑
- メディアが発信する情報が人々の意識・行動に対して強い規定力をもつとする見方である「強力効果論」に関して、その論拠として援用されることの多い二つの歴史的事象(①ナチスのプロパガンダ、②『宇宙戦争』事件←1930'sにウェルス原作のSFラジオドラマを聞いた人々が"実際に宇宙人が攻めてきた"と信じたとされる事件)が本当に強力効果論を支持するものとなりうるのか?という疑問を投げかけている。
- 「ナチスのプロバガンダが強力だった」というイメージを形成することは、ナチ・ヒトラー側にとっても、対抗勢力にとっても都合のよいものであり、(たしかにヒトラーの弁舌は巧みであったものの)事後的に構成・誇張された側面が強いことが指摘されている(pp10-11)
- 「宇宙戦争」事件がメディア研究において重視された歴史的経緯としては、世論研究者キャントリルがこの事件についてまとめた『火星への侵入』という学術書の存在が大きいのだが、"メディアが強力な効果をもつ"ことの根拠として援用されることの多いこの研究は、注意深く読めばむしろその後の「限定効果論」の嚆矢的研究であると著者は主張している。
- 「このように、キャントリルの研究は、どのような状況に置いて、どのような人々がパニックを引き起こすかを明らかにしようとした研究であり、マスメディアが「誰に対しても」「いつでも」強い影響力を持つことを示すような研究ではなかった」(p.24)
- はじめはニュースと聞いていた人々も、内在的/外在的チェックにより半数はニュースではなくドラマだと気づいたとのこと。また、「他人に言われてラジオをつけた」人はそうでない人よりも信じ込む割合が高く、学歴の高い人は信じ込む割合は低かったとのこと。"すごいことが起きてる、ラジオ聴けよ!”みたいな感じに言われてニュースを見始めた場合に批判的志向力が働かなくなるのは、ニュースというよりは他者の影響なのでは(そしてそれは限界効果論の中心的視座だ)とのこと。
- youtubeで検索すれば当時の音源があるよ!と書いてあったので、検索したらたしかに出てきた。いや、私の英語力じゃ字幕ないとアレなんですが(語学の天才まで100億光年だ..)、確かにサイレンとか叫び声とか、専門家への緊急インタビューとかあってめっちゃ手が込んでるのは分かる。たんなる朗読ではなくて迫真性がある。
- そもそもマスメディア強力効果論は、「「マスメディアは強い効果を持たない」という知見のインパクトを高めるための仮想的として、後の時代になって作られたものではないか」という見方もあるようだ(pp.26-7)。なるほどねぇ...ありそうな話ではある。
- 第二章:限界効果論について
- メディアの効果が限定的であること自体は、正直自明な現象である。では限界効果論がなぜ重要なのかというと、「マスメディアの効果が限定的なものにとどまる具体的なメカニズムを明らかにしたから」(p.29)とのこと。
- メディアの効果が弱まるメカニズムを表したp.30の図がとてもわかりやすい。無理やり文章に起こすと、以下のようになる
- 「集団・他者レベル」「個人レベル」という二つのレベルでメディアの効果は弱められる。個人レベルでの作用はさらに行動/認知過程の二つに識別される
- 「集団・他者レベル」では①集団内のオピニオンリーダーや他の構成員を媒介してメディアの情報が伝わるという「コミュニケーションの二段の流れ」によるフィルター、② ニュースに先んじて存在する準拠集団の基本的考え(先有傾向)からの逸脱しにくさ、③そもそも社会的文脈や地域・所属集団により触れられる情報が異なるという「デファクト選択性」、などがメディアの直接的作用に対する緩衝材になる
- 「個人レベル」では、①:個人がその選好や志向性に沿うように情報の取得を行うという「選択的接触」、が行動面でのフィルターとして、②-1:認知的不協和の低減、②-2:「動機付けられた推論」の存在、などが認知面でのフィルターとして作用する
- エリー調査(政治意識や投票をテーマとした多時点追跡の大規模調査で、7か月にわたり1940年に行われた)のデータを分析して書かれたラザーズフェルドの「ピープルズチョイス」が、各概念の説明に援用されているが、その知見が面白いのでいくつかメモ。
- そもそも分析した対象のなかで、支持政党が明確に変化したのは回答者全体の12%しかいなかったとのこと。そしてその6割には「交差圧力」(異なる政党への投票を促す要因が併存している状態)が働いていた。保守的な家庭で育ったけどリベラルな人が多数派の職場に勤めていたり、めちゃめちゃ厳格なカトリックの教育を義務教育段階で受けたけど、大学は革新・リベラルな雰囲気だぜ...みたいなパターンを想起すればいい(pp.37-8)
- 選挙への関心が高い層は、プロパガンダに接触しやすいのだが、そもそも支持政党から発せられたものに接触が偏っているために、基本的にメディア接触は先有傾向を強化する。「マスメディアを通じて発信された情報がもたらす効果の中心は、投票先を変更させる「改変効果」ではなく、もともと持っている態度を強める、あるいは曖昧であった投票先を明確化する「補強効果」である」(p.41)とのこと
- 各集団における「オピニオンリーダー」に着目して、「コミュニケーションの二段の流れ」仮説を提出したのが『ピープルズ・チョイス』の貢献のひとつ。追試的な調査・研究も含め、オピニオンリーダーは多くのメディアや情報に接している傾向がある。
- 「コミュニケーションの二段の流れ」モデルは、かの有名なロジャースのイノベーション普及モデルにも大きく影響を与えているとのこと(アーリーアダプターがX%いて...っていうアレ)。はえーっ!確かに同じ構造ではあるな
- メディアの効果が限定的であることの論拠としての「選択的接触」は、ひとつのメカニズムとしては認知的不協和の低減が、もうひとつには「動機付けられた推論」が想定されている。「動機付けられた推論」は社会心理学者クンダが提起した概念であり、ここでは「正確性」と「方向性」の軸が紹介されている。「正確性」に動機づけられている情報探索ばかりではなく、"自分の意見に沿ったこういう情報が欲しい"という「方向性」の動機による情報探索行動も多くある旨。
- ただ、「選択的接触」というのは個人の認知過程が情報摂取の偏りの主因とする見方ではあるが、そもそも置かれている環境・地域・集団などの文脈によって入ってくる情報が違うんじゃないの?という「デファクト選択性」による偏りも大きいことがわかってきたため、一時そういった問題関心は下火になったとのこと。ただ、インターネットが普及したことにより選択的接触の問題をまた考える必要が出てきた(pp.74-5)
- 第三章:「第三者効果」と「敵対的メディア認知」についての説明
- 前章で、メディアの効果は限定的であるということ、そしてそれはなぜかということを説明したが、それでもなお人々が「メディアは人々を強烈に支配している」と思ってしまうのはどういう仕組みになっているのか、というのを説明した章。
- 「第三者効果」は「自分自身に対するメディアの影響力と比べて他者への影響力を過大視する」心理的傾向、「敵対的メディア認知」は「マスメディアの報道を自身の立場とは逆の方向に偏っているとみなす」という心理的傾向のことである。いってしまえばシンプルだが、多くの追試がされ、再現性が高い知見らしい。
- 「第三者効果」の話は本当に面白くて、これはありていにいってしまえば『「自分だけは賢いからメディアに影響受けないけど、周りはバカだからメディアに簡単に影響される」と、みんなが思っている』という状態として現代社会のメディアの影響力認知をとらえる見方なのだけど、人間の志向のニュートラルポジションがわりと"自分に甘く他人に厳しい"ものなんだな、と突き付けられるような気分になった。
- 敵対的メディア認知の話も、言われてみればそうだろうなって感じなんだけど、具体的な研究例やデータが出てくるとなかなかインパクトがある。同じニュースをみても、A党支持者は「B党に都合いいように偏向している」とみなし、B党支持者は「A党におもねった内容である」とみなしてしまうのである。いやー、これもすごいわかるなぁ。ある情報に関して「敵か味方か」みたいな観点から吟味するとき、人は減点法に走りやすいということなんだろうな。"俺らに不利"な情報ばっかりみつけてしまうという。
- 第四章:「新しい強力効果論」
- この本ではここまで、大まかに言えば、①メディアに文脈普遍的な強力な力はなくて、効果が発揮される状況は限定的だ、② そんな限定されたメディアを僕らは過大評価しちゃうんだ、っていうのを解説してきたけど、それをもう一回ひっくり返す章。"マスメディアには、意見を直接変えさせる力はないが、そうでない方法で人々の考えを大きく規定している"という研究例が多く紹介される
- 政治学者コーエンの言葉「ニュースは人々の考え(what the public think)に影響を与えることには失敗しているかもしれないが、人々が何について考えるか(what the public thinks about)に影響を与えることには驚くほど成功している(p.129)」が、この"新しい強力効果論"のポイントを端的にあらわした言葉として引用されている。なかなか重いし、SNSが浸透したいまでもかなり当てはまる点があるように思う。しかも読み進めていくと、「実際には、議題設定という過程を経ることで、マスメディアは間接的に人々の考えにも影響を与えていると言えるかもしれない」(p.133)という知見も紹介されている。
- 議題設定理論(メディアでの報道量が、人々の各テーマやトピックに関する重要性の認識に影響する)自体はまぁそうだろうな、という感じなのだが、メディアが短期スパンで人々の認識や行動選択に影響を具体的なメカニズムとしての「プライミング」と「フレーミング」、長期スパンでの影響について扱った「培養理論」についての具体的な研究例が非常に興味深かった
- プライミングとは、ある争点報道について接触したのちに、評価や行動選択にその争点が強く影響するようなメカニズムのこと(例:外交についてのニュースを聞いたあとだと政治家をより外交政策に重きをおいて評価する)。アイエンガー&キンダーの嚆矢的な研究では、いろいろなトピックで、実際に政治家の評価において事前に視聴した動画のプライミング効果が確認されている(p.155)
- フレーミングとは、ある情報をどういう枠組み(frame)で扱うかによって、受け手に及ぼす影響が変わってくる効果のこと。論理的に等価な情報が異なった形式で提示されるものを「等価フレーミング」、内容は広い意味で一緒だが強調点が異なる枠組みが提示されるものを「強調フレーミング」という(p.158)。
- 強調フレーミングの具体例の話がかなり面白いと同時に怖さを感じさせる話で、同じ社会問題を扱った報道でもテーマ型(より抽象化した、マクロな視点で問題を扱う)のフレームによる報道より、エピソード型(特定の人物・出来事にスポットをあてる)フレームの報道のほうが個人に帰責しやすい認識につながる、というアイエンガーの研究が紹介されていた(pp.158-161)。いやこれめっちゃわかる。マクロ統計とか雇用問題としての「貧困」に対して否定的な人でも、ひとりひとりの困窮した人々に対して”どう思う?"って突き付けられると割と自己責任論的に振る舞うというか。これは別に日本的な現象ではないんですね。勉強になったなぁ。
- 培養理論では、長期的・継続的なメディア(ここでは主にTVが想定されている)接触が、人々の社会への認識にどういう変化をもたらすかが扱われている。面白かったのは、①TVの視聴時間が長いと、「より世界は暴力的である」と認識するようになる(暴力に遭う確率を高く見積もったり、他人への信頼が低下する)が、学歴が高いとその効果は低くなる*2(pp.170-172)、②TVに長時間接触しているひとびとは属性差を超えて、似通って社会認識をもつという「主流形成」現象(pp.172-174)、③主流形成とは逆に、属性や所属集団による差がTV視聴によって広がる「共鳴」現象(pp.185-186)、あたり。必ずしも一様な効果が得られるわけじゃないってのが逆に興味深いですね。
- この章を(メモをとるために)こうやって読み返してふと思い出したのは、クリストファー・ノーランの『インセプション』だった。
- あの映画では、アイディアを"盗む"んじゃなくて"植え付ける"のがインセプションだと序盤に説明がある。しかし、あれはアイディアやメッセージそのものを植え付けようとしているというよりは、フレーミングやプライミングをやっているのでは、とこの章を読んだあとだと思えてくる。
- ケン・ワタナベ扮する大企業のトップに依頼されて、ライバル企業の跡取り息子に巨大企業グループの解体をさせるのが奴らの目的なんだけど、やり方としては夢のなかで「財閥を解体しろ!」ってメッセージを直接伝えるわけじゃなくて、その行為にポジティブなイメージ(親との和解や、自分自身での決断など)を想起させるようなフレーミングをおこなっているわけですな。また、企業グループを解体するか否かの判断を、「父親との和解」というトピックに引き付けて判断させるという意味ではプライミングである。
- 第5~6章はそこまで目新しい話があったわけではないので詳細は割愛。フィルターバブルやパーソナライゼーションとその帰結などの話に関しては、昨年末に読んだサンプター(『サッカーマティクス』の人)の『アルゴリズムはどれほど人を支配しているのか?』のほうも合わせて読むといいなと思った。意外とメディアは人の意見を変えられない、という最終的な含意に関しても一致している。
『パーソナリティのHファクター』(Lee and Ashton, 小塩監訳, 2012=2022年)
- あんまり心理学系の本は読まないんだけど、以前著書を読んだとき面白かった学者の方が監訳者だったので手に取った。
- 「監訳者あとがき」で、その監訳者が「本書の最初にエピソードとして示されたように、学生時代に見いだしたアイデアが世界中で注目されていくというのは、研究者にとっても憧れの姿なのではないだろうか」(p.182)と述べているように、著者のふたりは学生時代に国際調査のデータの分析から、当時(そして今も)パーソナリティ心理研究において大きな影響をもつ「ビッグ・ファイブ」モデルではとらえきれない6つめの次元をみつけた。それがタイトルにもなっている「Hファクター」である。
- 「H」はHonesty(正直さ)-Humility(謙虚さ)の略であり、これと元のBig5に含まれる5因子を合わせた6つの因子を包含するモデルを、各因子の頭文字をとって「HEXACO」と名付けている。それぞれ、以下の略である
- H:Honesty/Humility
- E:Emotionality(情動性, 元のBig5では「神経症傾向」にあたるもの)。共感性が高かったりいわゆる「繊細」さをもつほど高い
- X:eXtraversion(外向性)。社交的だったり明るい場合に高く、より内向的で引っ込み思案であると低い
- A:Agreeableness(協調性):寛大さや優しさ、平和を好む人では高く、強情で喧嘩っ早いひとだと低い
- C:Conscientiousness(誠実性):規律や勤勉性の高い人間で高く、怠惰や無責任なひとだと低い
- O:Openness to experice(経験への開放性):知的好奇心や発想力の高い人間で高く、前例を踏襲したり閉鎖的な人間で低い
- 2012年、つまり10年前に原著は出版されているが、訳者あとがきによると「残念ながら、HEXACOがビッグファイブに置き換わるような研究の展開は今のところない状況」らしいが、HEXACOとビッグファイブがともに言及・引用する、併存状況ではあるそうだ。
- 「H」はHonesty(正直さ)-Humility(謙虚さ)の略であり、これと元のBig5に含まれる5因子を合わせた6つの因子を包含するモデルを、各因子の頭文字をとって「HEXACO」と名付けている。それぞれ、以下の略である
- パーソナリティの心理学的研究を紹介・援用する本によくあるパターンとして、「○○な人は△△な傾向がある」という類型論の紹介が続く...という展開がある。この本も後半はそういう構成になっている。これはこの本のクオリティが云々の話ではなくて完全に個人の趣味の問題なのだけど、そのパターン「だけ」ではあんまり面白くないと思ってしまう派なので、ちょっと後半は流し読みという感じになった。どっちかというと、そこに環境や社会構造の話が絡んできて、問いがミクロ-マクロの重層化の形になってないと面白く思えないんだよな。
- とはいいつつも、いくつかの面白いポイントも少なくない箇所あったので、それを書き留めておく。
- O(経験への開放性)因子、C(誠実性)因子、X(外向性)といった三つの因子の高さがその時代や環境における適応に対して果たす力が、「その社会がどういう社会か」によって変わる、という話(pp.23-25)はかなり面白かった。O/C/X因子が高いことにはメリットとデメリットがあるのだけれど、時代や環境あるいはその社会の発展段階によって、そのメリットとデメリットのバランスが変わっていく、という話だ。
- 以前読んだJane Jacobsの『市場の倫理 統治の倫理』を想起して、色々考えが刺激される話ではあった。『市場の倫理 統治の倫理』は(クソ長い本なので強引にまとめると)「世の中の"道徳"や"美徳"と呼ばれるものは、大まかに二つの群に分けることができて、その一方は市場経済の発展に寄与し、他方は統治・権力機構の十全な作動に寄与する」ということが主張されている本なのだけど、O因子やX因子が高いことは「市場の倫理」が重視される社会でより生存に対して有利に働く、ということなのだろう。
- 出生順とパーソナリティの関連性についての実証研究があるらしく、面白いなと思った(Sulloway, 1996, "Born to Rebel", URL)。出生順が遅いほど反抗的なパーソナリティとなるとのこと。この傾向が、どの国や社会階層でも共通するのか、それとも違いがありうるのか、というのも気になるところではある。
- 米国の歴代の大統領のパーソナリティを、彼らに詳しい伝記作家やジャーナリスト、学者への他者評定から測定する、という研究があるらしく、興味深かった(pp.58-60)。これ日本じゃ絶対やれないだろうなぁ*4。
- 社会的・心理的・身体的な特徴が類似したものどうしが結婚や友人関係において結びつく同類結合について、HEXACOの各因子は重要な役割を果たすのかどうかを検討した部分も面白かった(pp.102-104)
- HEXACOのうち、同類結合にかかわるのはH因子とO因子のみ、とのこと。すなわち、正直さや謙虚さの度合いが似ている人や、知的好奇心の旺盛さが似ているような人は友人になりやすい、とのこと。もちろんここでいわれているのは平均的な統計的関連性で、絶対的な説明則ではないから、自分や周りに思いを馳せればその反例はいくらでもみつかるんだけど、割と納得感はあった。違っているからこそ仲良くやれる、みたいなのも一方ではあるんだけどもね。
- 個人的には政治意識、特に右翼権威主義(RWA, right-wing authoritarianism)および社会的支配志向性(SDO, Social dominance orientation)に焦点を当てた7章がかなり面白かった
- RWAは(その国の)伝統的規範を重視し、そこからの逸脱への排撃を支持するような志向で、SDOは(その国・社会の)支配的階級におもねるような、「分相応」からの逸脱を嫌う志向性を指す。
- RWAとO因子は負の相関がある(これはまぁそうだろうなという感じ、新しい発想や経験を嫌う人のほうが保守的で伝統による支配を好むだろう)んだけど、その関連は年齢を重ねるにつれて強くなるという話(pp.114-115)が面白かった。たぶん因果の方向性としてはO→RWAが想定されている(「O因子の低い人々は社会において保守的な立場のほうにしだいに引き寄せられており、O因子の高い人々はそのような立場から遠ざかっていく」,p.115)のだが、まぁ逆もあるんだろうな。
- この事象(O因子⇔RWAの関連が年齢につれて高まる)への説明仮説として、「年齢が高まるにつれて、親の態度(や政治的・宗教的)の影響が弱くなり、遺伝的な影響が強くなる」ことが挙げられているのが興味深い(p.116)。O因子がある程度遺伝的に決定されていて、RWA決定における相対的重要性が年齢につれて高まっていく(親の影響は普通弱まっていくから)ので、ということである。
- SDOとH因子には負の相関があり、正直さや謙虚さや道徳性を重視する人々は、社会的不平等に反対する傾向があるとのこと(pp.120-121)。これはもっとツッコむと、機会の平等と結果の平等のどっちを扱うのかでも違いが出てくるのではないかと感じた(SDOの測定尺度にはどっちも混ざっている気がする)
『旅する力:深夜特急ノート』(沢木:2008)
- ノンフィクションライターの先駆け的存在である沢木耕太郎が「深夜特急」シリーズの締めとして出したエッセイ。
- 近年、若い人が個人経営の小規模な本屋を出す流れがあるようで、東京の各地にそういう本屋ができている。自分の家の近くにも若い店長がやっているその類の喫茶スペースつき書店があり、そこでたまたま目についたので購入。
- 本を買うことも、人気や新着の本の情報を得ることも、もっぱらオンライン経由になりつつある世の中で、私も例外ではなくほとんどAmazonで買ってしまっている。でもリアル書店にはやはりリアル書店だからこそのよさがあるとは常々思っていて、個人的には大型書店で圧倒的な数・種類の本に囲まれることがその魅力の最たるものだったんだけど、最近こういう個人書店も良いな、という風に思うようになった。
- 狭いスペースに、店主の琴線に触れたセレクトされた本が並んでいるのは、「どんな本もありそう」な大型書店とは違う良さがある。友人の家に遊びに行ったときに、本棚を見ながら彼らのこれまで・これからの関心や好奇心の軌跡に思いを馳せるのって結構楽しいんだけど、その楽しさに似ている。
- 「深夜特急」シリーズ自体を読んだことがなかった(藤井聡太竜王の小学生時代の愛読書らしい。どんな小学生やねん)ので、てっきり勘違いしていたのだが、沢木氏の旅は鉄道・電車(や船や飛行機)をなるべく使わずに「デリーからロンドンまで乗り合いバスで行くこと」が基本コンセプト(実際にはさらに手前の香港から出発)で、実際にそれをほぼ遵守した旅であったとのこと。
- 「パキスタンのバスはすべてクレイジー・エクスプレスと言ってよい」(p.168)のエピソードが印象的。ボロボロの車両でギュウギュウ詰め、ドアや窓も閉まらなかったりするのにわけわかんほどスピードを出し、挙句の果てにバス同士でレースを始める、とのこと。
- この本以外でも、アジアやアフリカなどの(当時の)途上国のバスの運転のワイルドさ(婉曲表現)を描写する本はたくさんある。ちょっとずれているけど自分が印象的に覚えているのは、高野秀行×清水克行『世界の辺境とハードボイルド戦国時代』で出てきた話で、一昔前は日本中世の研究者はインドに旅行に行くと各地での警察の取締まり(ドライバーがワイロを渡して通してもらう)を見て中世の「関所」についてのアイディアを思いつく、という話だった。ウソやろって思ったけど偉いな歴史学者で数人そういう人がいるらしい。
- 当時の一般的なルートはヨーロッパに飛行機に行って西からアジアに入っていく、というルートだったらしいが、沢木氏があえて西進するルートにした理由として彼がはじめての海外旅行で韓国に降り立った時の原体験が挙げられている
- 「ここからパラシュートで降下し、地上に舞い降り、西に向かってどこまでも歩いていけばパリに行くことができるのだな。もちろん、その間には北朝鮮があり、中国があって通過できないだろうが、原理的には歩いてヨーロッパに行けるのだな、と。そのときの心のときめきはいつまでも体の中に残っていた」(p.103)
- 特にメモとかとってないんだけど今年読んでかなり面白かった本のひとつに、江戸末期~明治期に当時の日本の辺境(蝦夷地、八丈島、台湾)で探索したり紀行文を残したりした何人かの話をまとめた宮本常一「辺境を歩いた人々」があるんだけど、当然ながら当時電車や飛行機は日本にないから彼らは物凄い距離を歩いていったわけで、それを読みながら「原理的には歩いて東京から鹿児島まで行けるんだよな」とか考えてたのを思い出した。当時は遠国への旅をするのも数か月・数年がかりだったし、ある種それまでの生活基盤を捨てる覚悟を持つ人々が旅人だったわけだ。
- 沢木氏が「深夜特急」の旅をしていたのは26歳の頃で、出版後に影響された読者が26歳前後に長期海外旅行に出てしまう事例が続出していたと回顧している。
- 手前味噌的にそこから沢木氏は26歳くらいが海外放浪する「旅の適齢期」であるとの持論を展開する。なんか強引すぎる気もしたが、齢を重ね、経験を積みすぎてからの旅は感動や印象はどうしても少なくなるから、「経済的に余裕ができたら..」などと思わずにある程度若い頃に思い切って放浪せよ、というのは理解できる気がする。
- 「あの当時の私には、未経験という財産付きの若さがあったということなのだろう。もちろん経験は大きな財産だが、未経験もとても重要な財産なのだ。本来、未経験は負の要素だが、旅においては大きな財産になり得る。なぜなら、未経験ということ、経験していないということは、新しいことに遭遇して興奮し、感動できるということであるからだ」(p.296)。「未経験も重要な財産」ってのは、なるほどなぁと思った。確かになぁ。
- これも世代的に知らなかったんだけど、90年代後半に「深夜特急」シリーズは”ドキュメンタリードラマ"という形で映像化されており、その主演を大沢たかおがやっていた。ということで、巻末には沢木×大沢対談が載っている。大沢さんにとっても転機となる作品だったらしく、それまで出演作の中心だったトレンディードラマ*5に体質的に戻れなくなったらしい。面白いなぁ。
- 「以前から、そこで演技をしているんだかどうかわからないような芝居をしたいと思っていたんですね。それを「深夜特急」の中で存分に実験できる毎日を過ごしたあとでトレンディードラマの世界に帰ってくると、ハイそこで振り向いて「愛してる」と言ってください、みたいな芝居にどうしても入っていけないんですよ。そこから監督やスタッフの人たちと溝ができるようになってしまって」(p.370-371)
『セシルの女王』1-2巻(こざき亜衣:2022年~)
- 「あさひなぐ」の作者の最新作。舞台は16世紀の英国で、主人公はエリザベス1世の側近として長きにわたり活躍した初代バーリー男爵ウィリアム・セシル。
- 「あさひなぐ」は近年のスポ根モノのなかでも最高級に好きな作品であるが、全然違う題材に挑むチャレンジ精神がすごい。そしてとても面白い。
- イギリスというと、有名な女王の長期在位期間が歴史上何回かあった国でもあり(読んでいるときには予想だにしていなかったが、歴代最長であったエリザベス2世が逝去されてまた今は男性国王の時代となった)、日本に比べればそこまで男性君主へのこだわりはないようなイメージがあった。しかし、この1-2巻はヘンリー8世の妃達の、壮絶な「男子を生むこと」へのこだわりが物語の中心として描かれており、英国でも女性君主はあくまでもアノマリー扱いだったのか、と。
- 尾篭な話でアレだけども、セシルが時の枢機顧問官トマス・クロムウェル(ピューリタン革命で活躍するオリヴァー=クロムウェルは彼の姉妹の子孫)への接触を図るシーンで、「糞壺の交換をしにきました」と偽って彼の部屋に入ろうとするのが、当たり前だけどなるほどと思った。下水道の整備なんて歴史的には本当に最近のことなんだよな。
- 一応世界史選択だったけど受験後一週間でインプットした知識の95%が忘却された私でも覚えている"ブラッディ"メアリが、まだ少女ながら後に爆発するであろう苛烈さを孕んだとても良いキャラとして登場しており(エリザベスはまだ2巻終了時点では幼児)、彼女がいかにして「血まみれ」になっていくのかが楽しみである。
「人間の土地へ」(小松由佳, 2020年)
- 若干24歳でK2登頂を果たした著者が、その後シリアのパルミラのある家族と深く関わるようになった中でシリア内戦が勃発し、多くの困難に直面しながらもその家族の末っ子と国際結婚し、その後色々な苦労がありながらも2人で日本の生活地盤を築いていくまでのノンフィクション。件の本屋で棚に並んでいるのを見つけて、「語学の天才~」の高野さんが発売当初に激賞していたのを思い出して購入。これも今年読んだなかで3本の指に入る面白さだった。
- 上で書いた「旅の力」でもいくつか腐敗したアジア各国の警察の話が出てくるが、シリアの警察がワイロありきで動いているという話が興味深かった
- 「『シリアでは賄賂が社会の潤滑油。賄賂を渡すという事は相手に敬意を払うということだ』。ある友人の言葉だ。善いか悪いかではなく、それが国の行政に対するしきたりだった」(p.140)
- 「抜け道」という認識ですらなく、賄賂を渡すのが正道になっている、と。わりと最後のほうで「シリアには税金が存在していることを知らないまま生きているシリア人がたくさんいる」と書いてあって衝撃を受けたのだけど、公権力に対する市民の金銭的負担とその引き換えとしての職務への監視、みたいな意識は決してグローバルに通底したものではない、ということか。
- 内戦開始後、裏業者にカネを積んだり軍から命がけ脱走したり、といった壮絶な思いをしてシリアから亡命した大勢のうち、かなりの部分が難民キャンプでの生活に生きる意味を見出せなくて、結局虐殺や武力衝突が起きているシリアに自ら戻る選択をした、というのが印象に残った。それまでの人生を過ごしてきた縁や関係性から遊離した宙ぶらりんな状態となるほうが、命の危険にさらされることよりも辛いことなのだ。
- 難民へのサポートや受け入れ体制みたいなものを考えるとき、まず経済的・物質的な支援にばかり頭がいってしまうんだけど、本当に彼らが慣れない地で前に進めるようにするためには、彼らが故郷で大事に培ってきた周りの人間との関係性やそこで育まれた尊厳みたいなものを取り戻す/新たに作り上げることが可能な環境を用意する必要があるのだと感じた。
- 著者の夫となるラドワンさんも、戦時中に徴兵され、市民運動の弾圧などに政府軍としての出動を余儀なくされることに心を痛めてヨルダンに命がけで軍を抜けて脱出したものの、またシリアに戻って反政府勢力に参加した。だがそこで結局政府軍と同じような現実があることに絶望して再亡命し、著者と結婚して来日するものの、日本での生活が安定するのにかなり時間を要した..という激動の人生を歩んだ方であった。
- 来日後にラドワンさんはいくつもの職を転々とし、精神的にどんどん疲弊していってしまうのだが、結局彼を救ったのは、①同じようなムスリム系の先人が作った会社(賃金は最低賃金を下回るものの、シリア人の「ゆとりを重視し、あくせく働かない」ペースが許される)で働き始めたこと、②日本にもモスクがあることを知り、そこに通い始めて似たような経験をもつ人たちとの関わりを持つようになったこと、だったということ。
- シリアで悪質な盗難の被害に何回か遭った筆者は、本書前半でその理由として「日本人の数日の稼ぎが、シリア人の一か月ぶんの稼ぎに相当するという格差・不平等感」を挙げている。だが本の終盤でいざ「日本で働くシリア人」に(本人は望んだものではないけれど)なる機会を得た彼女の夫が本当に必要としたのが、稼ぎの良さではなく彼がパルミラで培ってきたような生活のリズムの回復を支える組織や関係性であった、というのが示唆的であった。
- この本の後半は一種の「国際結婚モノ」としても読めるんだけども、結婚当初に著者が、シリア人と結婚・離婚したカナダ生まれの女性から授かったアドバイスの内容が性生活に関するかなり具体的なもので、まぁ実際にとても切実なんだろうけどインパクトがあった。ムスリムの男性/女性観といわゆる先進諸国の男女平等観みたいなものの狭間で、ちょうどいい塩梅の折り合いを見つけるまでの著者の苦闘もなるほどと思った。
- 「お互いの価値観を完全に理解できなくても、そのわからないことをリスペクトして、共にいられること」こそが大事なのだという彼女の辿り着いたスタンスは、別に国際交流に限らず、同じ文化圏や家族内のコミュニケーションであっても求められることなのだろう。
- 中立だけど傍観・諦観せず、色々な対立する立場の声を聴く、という筆者のスタンスが本全体を通してよく文章に現れていて、かくありたいと思わされる本であった。