例によって最近じゃないものも含むやつ
鳥頭ゆえ,仕事に関係ないものを読んでも(いや関係あってもだが)すぐ忘れるので、本当はもっと細かに記録しなきゃなんだが
- J・ティペット(2024=2025)『エックスジーニアス:確率と統計で観るサッカー』
- 伊藤将人(2025)『移動と階級』
- 映画『リライト』
- 映画『オッペンハイマー』
- 町田康『ギケイキ』1~3巻
- 佐藤卓己(2024)『あいまいさに耐える:ネガティブ・リテラシーのすすめ』
- 橋本陽介(2018)『ノーベル文学賞を読む』
- 「アウェイサポ、鹿児島でなにしてる?」(KTS鹿児島テレビ 公式Youtubeチャンネル)
J・ティペット(2024=2025)『エックスジーニアス:確率と統計で観るサッカー』
- 発売前にSNSで知って興味がわき購入。てっきり『サッカー データ革命:ロングボールは時代遅れか』や『サッカーマティクス』のような、サッカーをめぐる統計や数理の話をガッツリ取り扱うだろうと思い込んでいたのだが、どちらかというデータサイエンスよりっていうよりはクラブ経営にかんする記述が厚い本である。まぁこれはこれでおもろかった
- ひらたくいえばサッカー板『マネーボール』と思ってもらえればいいと思う。サッカーにおけるデータ活用関係のトピックにそれなりに触れている方なら分析面に関してはあんまり初耳の情報はないんじゃなかろうか。
邦題サブタイトルのわりに、確率と統計の話はあんまり出てこない
- ひらたくいえばサッカー板『マネーボール』と思ってもらえればいいと思う。サッカーにおけるデータ活用関係のトピックにそれなりに触れている方なら分析面に関してはあんまり初耳の情報はないんじゃなかろうか。
- ブライトンやブレントフォードが主にデータ経営っつーかxG-basedなクラブ経営を活用した「成功者」として描かれている。
- この二つのクラブは著者曰く「サッカー界の一卵性双生児」(p.29)であり、いずれもオーナーが(スポーツ・)ベッティングでの経験を豊富に有していたり、「データ・ファースト」経営を可能な組織構造を整備してたりすることで共通している
- "データに基づいたクラブ経営の中心にxGを位置づけることが成功への鍵となったんだぜ"ということをすごい記述を厚くしたり色んなエピソード加えたりして言ってるのがこの本、という印象だけど、なんかxGってそんなに中立的な指標として考えていいんだっけ?みたいなのが気になってしまった
- それは① xG自体が同じインプットによっても立脚するモデルによって異なるアウトプットを吐き出すというモデル依存性をもつ、②「xGとの実ゴールとの差分」(≒モデルにおける「誤差」)自体がチームの競争力となる隠れた変数との関連を持っている可能性がある、という二つの理由による
- でも終盤の章でも紹介されている「枠内ゴール期待値」ことxGOT(日本語での説明記事の例)とかを使えばストライカーの"実力"がxGOTとxGの差分として計測できるから、そっちでカバーできるという発想になってるのかな
- 実は個人的に一番刺さった(し、特定のクラブを長年応援してるサッカーファンなら他の多くの読者も刺さってそうな箇所だといえる)のは、xGとかデータサイエンスとは直接関係ない以下の記述だった。なんか胃が痛くなるサポは多かったのではなかろうか。
成功させなければならないのはチーム自体の進化だ。
逆に避けたいのは、ある監督のためにチームを作り、
その監督が去ったあとに次の監督に向けて全く新しいチームを作り直すことだ
(p.105)
- この「チーム自体の進化」をどう定義するか、というところにクラブ力というところが出てくるし、(社長でも強化責任者でもいいので)そこを明確に言語化したうえで通底させるリーダーシップを目先の結果に一喜一憂せずに発揮し続けられる人材を抱えられるかどうかで、かなり差が出てくる時代だという印象がある
- もう10年以上前の本になってしまった『アンチェロッティの完全戦術論』を8年前に読んだ時、「もうトップレベルでは職務分掌が進んできているので、監督個人の力量というよりは専門性の異なるコーチングスタッフをどう組織化するかという時代だ」という感想を持ったのだが、さらにそれを支えるミドルオフィスというか評価・分析部門の充実が競争優位性のうえで重要になってきている時代なのかも、という印象だ
- むろんプレミアの競争環境とJの競争環境は、財政規模的にも文化的にも異なると思うので、そのまま海の向こうのベスト・プラクティスをもってこればいいみたいなハナシにはならないのが難しく面白いところではあると思う
- 人を増やせばいいのか、プレミアのクラブくらい人を雇える金があればうまくいくのか、というとそういう短絡的な話ではない、とはなんとなく感じている
- 関連して、(クソがつくほど飽き性の自分が奇跡的に初回から4年以上継続的に聴いてるpodcastである)「START/FM」の最近の回で、Justin.tvやTwitchの創業メンバーであるMichael Seibelの「More Workを成し遂げるにはMore People(人を増やす)よりMore Organization(仕組みの整理)」という言葉が紹介されていたのだけど、まさにそういう観点が必要なのではないのかと感じた。
- "新しいデータ指標やデータ人材を増やせばうまくいく"のではなく、意思決定の仕組みを一緒に整備しないと中長期的な優位性にはつながらない。そしてそのためにこそ言語化の努力に組織として取り組む必要がある、ということだ
- もう10年以上前の本になってしまった『アンチェロッティの完全戦術論』を8年前に読んだ時、「もうトップレベルでは職務分掌が進んできているので、監督個人の力量というよりは専門性の異なるコーチングスタッフをどう組織化するかという時代だ」という感想を持ったのだが、さらにそれを支えるミドルオフィスというか評価・分析部門の充実が競争優位性のうえで重要になってきている時代なのかも、という印象だ
- これは内容とは関係ないけど、訳者あとがきが我らが"妖精"ドラガン・ストイコビッチ*3の言葉で始まるのは、名古屋サポ的には地味嬉しいポイントだった。
「日本がW杯優勝のチームと10回戦ったとする。他の競技ならまず勝ち目はないだろうが、サッカーなら3回くらいは勝てる可能性がある。これがサッカーのおもしろさであり、怖さでもあるんだ」
本書を読んで僕が最初に思い出したのは、ストイコビッチが離日直前に語った言葉だった
- この前のグランパスの鹿島戦は, 「3回くらいの勝てる可能性」は引けなかったなぁ、と思ったり。この記事を書き進めてる間に日本がブラジルに勝っちゃったりしたけど、その試合に比べると「何かを起こす」準備もあいまいだったなぁ、と。
伊藤将人(2025)『移動と階級』
- 基本的に構成としては「X(階級・性別その他の要因」)が移動可能性/実際の移動行動に影響している」という命題を, 変数Xをかえながらどんどん検証・提示してくという形の書。そこそこというかかなり売れているらしいが、あまり「驚きの事実」みたいなのはなかった。でも文献レビューの箇所含め, 当該トピックにあまり詳しくない人(私も含め)への入門書としてはよいのではないだろうか
- KaufmannのいうところのMotility(可動性, あるいは潜在的移動可能性)を「移動資本」と呼び、さまざまな分析を行っている*4
- 移動「資本」と名づけることで①「過去の移動経験の蓄積」がさらなる移動可能につながるという蓄積性、②「将来の移動可能性や、移動する価値があるという判断したときの移動能力」の不均等性、の二つの性質をとらえようとしている(pp.42-45)
- アーリ(この人は流石に私でも聞いたことがあるぞ, mobility studiesの大御所だ)の「ネットワーク資本」概念も類似概念として紹介されている。
- 「移動が/移動を可能にしている現実の社会諸関係と潜在的な社会諸関係を指し示すもの」でその多くの構成要素にインターネットの普及がかかわっている(pp.46-48)
- もう読んだのが結構前なのでわりと忘れちゃったんだけど、あとがきだったか結論だったかで紹介されていた、限界集落に住んでるおじいちゃん?の「この地域はもう滅んでいくだろうけど、俺はそれでもこの場所が好きなんだよね」(大意)みたいな言葉が一番印象に残った
- 地域間格差とか過疎⇔過密の問題を考える時、効率性とか「○○上の有利/不利」みたいな話をまず枕に置きがちなんだけど、そもそも"「この町や村で育ってきた」というひとつひとつの人生の歴史が、その地域の固有性と分かちがたく結びついている"ということを考えなきゃいけないという著者の問題意識を感じた。どっちも大事だよね、むずいっすなー。
映画『リライト』
- ずっと好きな劇団であるヨーロッパ企画の上田誠さんが脚本ということで観に行った。個人的にはここ1-2年で劇場でみたものでは一番おもしろかった(ヨーロッパ企画が好き ≒ 時間モノSFが好きといっても過言ではないので、その嗜好に合っていたというのはもちろんある)。監督は『バイプレイヤーズ』や『ちょっと思い出しただけ』の松居大悟さん
- 『サマータイムマシンブルース』『リバー、流れないでよ』『ドロステのはてで僕ら』『時をかけるな、恋人たち』などでひたすら"時間系SFをどう面白くみせるか"に心を砕いてきた上田さんが脚本担当という点で信頼度はすごかったし、テンポの良い会話で笑わせるところとかはヨーロッパ企画イズムみたいなところを感じたりした
- とくに倉悠貴さん演じる茂のネタバラしパートの「別に男でもいいことに途中で気付いた」みたいなところで声を出して笑いそうになった。いやすごいシリアスなところなんだけど
- TV普段見ないこともあって倉悠貴という俳優をはじめて知ったんだけど,個人的には間違いなくこの映画のMVPであってとてもいい役者だと思った。これからも注目したい。
- とくに倉悠貴さん演じる茂のネタバラしパートの「別に男でもいいことに途中で気付いた」みたいなところで声を出して笑いそうになった。いやすごいシリアスなところなんだけど
- でもなによりこの映画のすごいところって, 「時間」の表現だけじゃなく「空間」の使い方がとてつもなく巧みなところで、舞台である尾道の(風光明媚でありながら)立体的な街並みや、高校の校舎の存分に活かしているところである。
- 特に過去編のクライマックスたる夏祭りのシーンはその「空間」表現の極致といったシーンであり、記事「 松居さんとリライト。 | みんなのミシマガジン」で, 上田さん自身がその苦労を以下のように語っている
映画中でも、クラスメイト全員の行動を矛盾なく制御する大頭脳労働、みたいなシーンがあるのだけど、まさに今スタッフがそうなっているそう。
たしかに地獄だろうなあ、空間のパズルね、と思ってそう送ったら「空間のパズルね、じゃないよ」と返ってきた。怒っているのかもしれない。この作業の凄絶さは、映画を観た方なら想像つくかもしれない。
夏の盛りに、キャストスタッフ全員であれを理解して、実際にやるわけです。なんなら日に焼かれた校舎裏や、影ひとつない炎天下の屋上で
-
- 5年くらい前にひっそりと(?)地上波でやっていた「ヨーロッパ企画のyou宇宙be」という番組で, 松居さんと上田さんが対談しているなかで「映画は時間の芸術であり、演劇は空間の芸術である」という話が出ていたのを記憶しているんだけど、この『リライト』は時間の芸術たる映画のなかでもさらに時間系SFという"時"に特化したジャンルでありながら、高度なレベルで空間の芸術でもある、稀有な作品だと感じた
- 尾道という街自体の魅力をとてもよく伝えている映画でもあると思う。自分も行きたい。映画史に疎いので知らなかったんだけど、大林監督の『時をかける少女』の部隊が尾道だったりで時間映画にゆかりのある土地なんすね。
- 高校時代の先生役の尾美としのり,主人公の母親役の石田ひかりの両氏も大林監督の出演者であることによるオファーであるっぽい
- 公式サイトが凄い丁寧なロケーションマップを載せているので、それを片手に歩きたい
- 自分が観に行ったのは公開1週間後くらいだったけど、映画自体のクオリティに対して客席はすごい空いてたのが寂しかった記憶がある。そんなにちょっと個人的にはとんでもなく面白かった映画なので、惜しいなぁと思う。
- 公開から1か月くらいで上映中の劇場もどんどん少なくなっていくのがせつなかった。
- いや『国宝』も凄いんですよ。凄いんですけどね*5。クオリティの作り方が別ベクトルだから単純比較はできないけど、凄味においては『リライト』も負けていないと個人的には思うので、どんどんスクリーンを譲ってしまってよいような作品じゃなかったよなぁと思う。9/12から配信されているみたいなので、なるべく多くの人に見てほしい
- 主題歌「scenario」を歌っているRin音というアーティストもこれまで知らなかったんだけど、この「リライト」の世界観にぴったりの曲を作っていて感銘を受けた。
- 何が凄いって、映画を観たら2曲作りたくなってどっちを主題歌にするかは映画サイドに選んでもらったって話である(インタビュー記事のURL)。才能の迸りがすごい。
- 主題歌の「scenario」はエンドロールで流れた時点でかなり琴線に触れたんだけど、帰って歌詞をみるとさらに感動が増幅されるようなすごい曲だった。「よく似ている私の思い出がなぜか33個ある街」のフレーズはゾワっとする破壊力である
- その主題歌に選ばれなかったほうの「貴方に晴れ」は、Rin音さん本人が「映画を観て、茂(演:倉悠貴)の目線をどうしても詞にしたかった」というモチベーションを語っているように、この映画を観た10人中8,9人は抱いただろう「茂、お前がナンバーワンだ」という思いを見事に音と詞に昇華していて、喝采を送りたい気分になった。
- やっぱこいつが影の主役だよなぁ、と深く頷いた。これまで見てきたフィクションの登場人物のなかでも最も偉大なプロジェクト・マネージャーであると思う。辻褄合わせの神と呼ばせてほしい。
映画『オッペンハイマー』
- 出張の長距離移動中になんか仕事する気も起きなかったので観ていた。原爆投下後80年、自分の今住んでいる国・地域的に無視できないテーマでもあったので。
- とくにこういう史実をもとにした半ノンフィクション的な作品だと、(自分の悪い癖で)映画館じゃなくて配信サービスで観てると結構止めて登場人物の背景とか調べちゃうんだけど、主要人物がみんなモデルとなる人物の実際の写真にすごい似せられていて、それがすげぇなあと思った。メイクする人すごい
- 原子爆弾開発のためにロスアラモスにちょっとした街まで作ってしまうのがアメリカのパワーよなと思った。『失敗の本質』にも、長期戦を見据えていたかどうかに日米の差があらわれていたみたいな節があったと記憶しているけど、確かにこれは短期決戦志向ばかりが頭にある組織にはできないリソースの使い方だ
- 「え、これ必要?」みたいな濡れ場が唐突に挿入されるのが結構違和感あった。あれ?ノーランってそういうことする人だっけか感。
- テーマがテーマということもあり、日本公開が遅れたり、被爆側の被害・苦しみの描写の少なさに批難が集まったり...という情報は前もって知っていたが、まぁ割り切って観れば映画としては面白くはあった。
町田康『ギケイキ』1~3巻
- タイトルの通り「義経記」をモチーフにした、ロードムービー的小説。長い。むっちゃ長い。
- もともとは前に読んだ、清水&高野『辺境の怪書、歴史の驚書、ハードボイルド読書合戦』で勧められていて読み始めたシリーズなのだが、なにぶん各巻がべらぼうにボリュームある(3巻とか500ページ弱ある鈍器である)のと単行本で読むとめっちゃ時間空くので、毎回結局はじめから読み直す*6。ゆえに読むのめっちゃ時間かかる
- たぶん次の4巻で完結だが、2巻が2018年刊行で3巻が2023年末刊行なので、確実に4巻が出ることにはまた全てを忘れているだろう。いとかなし
- 町田康節というかポップすぎる文体で義経の旅と人生を描いていくのだが、その割に上述の「ハードボイルド~」でも中世史の専門の先生が激賞しているように、時代背景への考察・理解がめちゃめちゃ深い(当時の土地の重層的な所有権のありかたとか、祈祷や超自然的なものへの信仰の重要性とか)
- 普通は源義経の人生のクライマックスといえば源平合戦で華々しく勝利を収めていくところだが、なんとそこをバッサリカットして、頼朝に出会うまでと頼朝に敵認定されてからだけを描くという思い切りのよさである。以下の1段落で済ませている
このことを私はここでは語らない。
なぜなら語ると結果的に自慢になってしまうから。自分がいかに輝かしい勝利者であるか。自分がいかに楽しい人生を送っているか。
そんなことを写真や短文で頻りにアッピールする奴。それは悲しい奴である。確かに私は悲しい奴で、これは悲しい物語だが、私自身はけっこう楽しかった。
こうして語っているいまもマア楽しい。だから語らない。知りたい人は平家物語とか読めばよい。虚実取り混ぜておもしろおかしく描いてある。
大河ドラマとかにもなっているし。
(2巻,p.16)
- 基本義経視点で進むけど急に他の人視点になったと思ったらなんか全然戻らない、みたいなことがしばしば起きる小説で、1巻とか急に100頁くらい弁慶の人生が詳しく語られるんだけど、地味にそういう所が超面白かったりする
- 弁慶って生まれはめっちゃ高貴なんすね。知らんかった。弁慶母(二位大納言の娘で右大臣の婚約者)はもともと別のとこに嫁いでいたんだけど、それを熊野弁当が連れ去って無理やり自分の妻にしたのが弁慶で、それが院庁マターになって戦が勃発しそうになった、みたいな話が書いてあった。へぇ~
- 普通に知識として勉強になることも結構あるんだけど、基本的には町田節を雰囲気で楽しむ小説ではある。個人的には↓らへんが気に入った
六波羅の者ならまだよいが、
盗賊風情にこんなことを言われたということをそのままにしておいたら、
それがいつまでも心の隅にあって、この先、
平気を滅ぼすことに前向きになれない。
ポジティブな気持ちで平家を滅ぼせない。絶対に嫌。
(1巻, p.57)
さあ、それで私が門の外に出撃していったかというと当然、そんな阿呆なことはしない。というのは当たり前の話だ。
たった一騎で大勢が待ち受ける門外に討って出るよりは、門内で待ち受ける方ががよいに決まっている。
戦争というのはそうして当たり前の判断ができる者が勝つ。にもかかわらず多くの人がともすれば当たり前じゃない判断をしてしまいがちなのは、あちこちで人がバンバン死ぬという当たり前じゃない光景を目の当たりにして、こんな当たり前じゃないときに当たり前のことをしていたら負けるのが当たり前だと当たり前に思ってしまうからである。
なので、上司とかそういう立場の人が当たり前じゃないことをやり始め、異議や疑義を唱える者に、
「なにを言う。いまは非常時だぞ。そんな当たり前のことを言っている場合か」なんていいだした場合は、諸共に滅んでしまう可能性が高いのでその上司を殺すか、それが無理ならそっと戦線を離脱した方がいい
(2巻, pp.140-141)
- ↑これはマジで金言というか、私は戦場に出たことはない(し、願わくはこれからもそうであってほしい)が、「非常時だから当たり前のことなんてしてられるか」ということを言う人*7が発生しがちな状況というのはまぁ人間社会に結構あるのだが、「当たり前の判断」を手放さない強さやしたたかさ的なものが必要になってくる
しかし私から見れば、あの頃の私たちと比べて合理的で理性的であるとは思わない。
それどころか、今の人間のほうがより、そうしたものに行動を規制されているように見える。なぜならあの頃は、そうしたものにある程度、統一された規格があったが、
今の人は個々人が勝手に、いろんなところで聞きかじった断片的な知識に基づいてスピリチュアルに支配され、
方角がよいだの、気がよいだの、運気が上がるなど、結婚できるだの、カネが儲かる、といった
錯覚と迷妄にとらわれて、非科学的で合理性を欠く行動をとっているからである。
(3巻,p.211)
佐藤卓己(2024)『あいまいさに耐える:ネガティブ・リテラシーのすすめ』
こうした輿論と世論の混同、さらに「輿論の世論化」こそ、
総合雑誌を含むジャーナリズムから責任感を奪ってしまった一因と私は考えている。
輿論(公的意見)を指導するなら当然責任も問われるが、世論(全体の気分)を反映するだけなら無責任でいられるからである
(p.95)
結局, 流言は人間がコミュニケーションする過程で善悪にかかわらず必ず発生するノイズである。
その発生を防ぐことは原理的に不可能である。だとすれば、
その発生を前提として混乱を最小限にとどめる情報システムの構築が求められる
そのためには、まず国家による情報公開の拡充、さらにそれを報じるメディアの信頼性向上が求められる
(p.38)
- 科学的世論調査の端緒(1935のジョージ・ギャラップによるアメリカ世論研究所設立)は、戦争を背景としている。ゆえに、(「支持率」などの使用による)迅速な"民意"の調達という形式での現在の世論調査は"総力戦"体制との親和性がある(第一章)、とのこと
- 「輿論と世論」でも少し触れられていた気がするが、世論調査とマーケティング業界は不可分という話があった
世論調査会社の創業者はいずれもマーケティング業界の出身である。
結局, 政治の「世論調査主義」と放送の「視聴率至上主義」はコインの裏表である。どちらも、観客(オーディエンス)の「思考」ではなく「嗜好」を計量するシステムなのである
- 支持率志向型政治あるいは「世論調査政治」の問題点を幾度と指摘している。確かに内閣が変わったりスキャンダルが起きたりするだけで数十%のオーダーで上下動するものはopinionというよりsentimentの測量値でしかないのかもしれない
しかし、内閣支持率に象徴される世論調査のデータはどのように得られた数字だろうか。
コンピュータでランダムに電話するRDD方式が一般的だが、回答者は電話口で即答を求められる。
食事どきに唐突に内閣の支持や消費増税の是非を問われたとき、日頃マスコミが報じる多数世論をオウム返しに回答する人は少なくない
[..]こうして増殖する雰囲気の統計値を「民意」とみなすことははたして理性的なことだろうか。
それは公的な意見(輿論)と呼べるものではなく、私的な心情(世論)の分布に過ぎない。
だが、この世論(セロン)が現状では「ヨロン」という理想的響きを帯びて、あたかも「日々の国民投票」のごとく政治的正統性の裏付けに利用されている
(p.55-56)
- これに関連して、critical thinkingにあてられがちな訳語としての「批判的志向」ではなく、時間的吟味に耐え簡単には風化しない「耐性思考」の重要性を筆者は主張している。
- この本を読んでいる間に自民党総裁の交代があり、時事通信の記者が新総裁に対して「支持率を下げてやる」と発言したという事象がニュースになっていたのだけど、そういうニュースに触れると、尚更この本における佐藤氏の主張についてメディア関係者は少しでも一読したほうがよいのではないかと思った。最終的にどういう態度をとるのかはそのあと決めればいいんだしね。
- おそらく真の問題は記者が政治家に対して無礼な振舞いをしたことそれ自体ではなく*8、政治家だけでなくメディアにおいて情報発信の当事者となる記者自身が"「支持率」至上主義"を内面化してしまっていることの浅薄さにある、といえるのではなかろうか。報道の主体がopinionではなくsentimentにしか目を向けられなくなったら、未来は暗い。
橋本陽介(2018)『ノーベル文学賞を読む』
- SNSを眺めていたら↓の,著者の販促投稿が流れてきたので買った。素直な男なので。
ノーベル賞の季節なので『ノーベル文学賞を読む』を買ってください。キンドル版が今半額です。https://t.co/DYyNWJZSVt
— 橋本陽介 (@qiaoyang915) 2025年10月6日
- 著者の問題意識として、「ノーベル文学賞の受賞者決定の季節になると、その選考の政治的・文化的・言語的偏りばかりが取り沙汰されるが、受賞作は面白いんやからまずは読んでほしい」というシンプルな思いがある。
- 正直文学の専門的な解釈とか研究としての扱い方みたいなのは分からないし、興味もそんなに惹かれないんだけど、この著者の小説観みたいなものはすごい共感できた。
- とくに以下の一節は、読み進めていた思わず「そうだよな!」と膝を打った。
小説化するとは、出来事に還元すること、描写に還元することであって、
何らかのテーマを説明することではない。
このため、テーマがはっきりした小説、言いたいことを一言で括れる小説というのは、
たいていダメな小説である。上質な小説は、様々な要素が複雑に絡み合い、ひとつひとつの文にも見どころがあるから、
取り上げる箇所によっても違う読み方ができるし、読む人によっても違ってくるそういう小説は何度読んでも新たな発見がある
(p.51)
- 自分が一番好きなというか人生で一番心に刺さった小説は、大学生の頃に友達からすすめてもらった保坂和志『季節の記憶』なんだけど、この本はまさに「言いたいことがをひとことで括れない」小説であり、「何度読んでも新たな発見がある」小説で、何より「一言にまとめる」ことができない小説である。
- 一言にまとめにくい、ということは人にわかりやすい売り文句ですすめにくい、ということでもある。それでもそのときの自分にドンピシャだったものをすすめてくれた旧友に感謝である
- 南米文学(やそこから影響を受けた文学)における「魔術的リアリズム」について、単語だけは知っていたが、わかいやすい説明のおかげで理解した気になれた
- 次の一節も深く頷いた。
外国文学を読む場合に、同国人と同じように読めるのか、という問いがしばしば発せられる。
文化的背景や知識が違えば、同じ小説を読んでも感じ方は異なってくるエジプト人が読むマフフーズと、日本人が異なるマフフーズは異なるに違いない。
しかし、エジプト人が読む読み方が正しいわけではない。
日本人の読者としては、日本人の読者としてテクストと向き合えばよいのである。(p.59)
- もちろん職業的翻訳者や文学研究者とかはそれが書かれた現地の文化的背景や歴史的経緯みたいなものを抑えておく必要はあるとは思うのだが、フィクションをフィクションとして楽しむ我々が「100%"現地の視点"を理解できないから...」と勝手にハードルをあげてしまうことで、外国の文学やその他フィクションを作品を楽しむことに二の足を踏むのは人生における機会損失だと思う。
- 別にこれは海外文化や外国語の理解というトピックに限らないことだが、知識というのはそれ単体の点ではなく意味のネットワークの網の目がある程度形成されてはじめて意味を成してくる、という側面があるので、「正しい理解」ができなくてもとりあえず適当なところに錨を下ろしてみてそこから広げていく、という姿勢が肝要である。まぁ分かっていてもなかなかできないんだけど
- とかいいつつ私も海外フィクションに関しては数年に1回くらいミステリを読むくらいなので、もっと増やしたいと思った
「アウェイサポ、鹿児島でなにしてる?」(KTS鹿児島テレビ 公式Youtubeチャンネル)
- 最近のJに関するコンテンツでダントツと言って間違いないチャンネル
- サッカークラブが各地域にあることが、人と人、地域と地域の"縁"の結節点になっているということをこの上なく感じさせてくれる番組である
- 自分は物心ついたころから家族の影響で応援しているクラブがたまたま大都市の(2017年の1年を除いて)J1に居続けているクラブでしかもオリジナル10だったりするので、応援対象のクラブは「自分の存在に先立って既にそこにあり、これからも恐らくは自分の行動に関係なく存在してゆくもの」という形で(たぶんどこか無意識的に)認識してしまっている。この番組はそういうJ1クラブのサポにこそ刺さるんじゃないかなぁ、と思った
- この番組に登場する各J3クラブのサポーターは、個人の歴史とクラブの歴史が折り重なっていく感覚を楽しんでいるように見える。それはクラブの歴史が若かったり、規模がまだ小さかったり、あるいは存在する地域自体がJ1に比べるとより"大都市でない"土地だったり、と色々理由はあるんだろうけど
- 「気が付いたらマイクラブを応援することが生活に融け込んでしまっていた」という人は、応援するクラブのカテゴリーや国を問わずサッカーファンに沢山いる(し、私もそんな一人ではある)が、クラブが存在することも同じクラブを応援するサポーターがたくさんいることも当たり前になってくると、応援する「理由」みたいなのを考える必要もあまりなくなってくる。その「理由」を再考させてくれる番組だと思う。
- (当初Jクラブがなかった地域である)奈良クラブや福島ユナイテッドの回で出てきたサポーターが、「応援するJクラブが地域にあることで、大好きな奈良を/福島を大きな声で叫べる」ことの良さをしみじみと本当にうれしそうに語っていて、ハッとさせられた
- この番組のすごいところは、各クラブのサポーターが彼/彼女らのひとりひとりの人生のなかでどういう歴史を経てその応援する「理由」に辿りついたのか、みたいなところを楽しく(←ココ重要)描いてるところだなと思った。もちろん「いい話」もあるんだけど、それを語る前提としてまず登場するアウェイサポの皆さんが本当に楽しそうなのが、サッカークラブが地域に存在することの意味を改めてポジティブに感じさせてくれる
- 長年同じクラブを応援してきて、戦術がどうだ監督がどうだ選手のパフォーマンスがどうだ勝敗がどうだばかりが気になっちゃう(いやそれはそれでサッカーを楽しんでるのでそのままでも全然良いんだけど)状態にあるサポーターがこの番組をみることで、良い意味で肩の力が抜けて、さらに別の方向からのマイクラブを愛し方を探し始めるきっかけになるような、そういう素晴らしい番組だと思う
- あと単純に鹿児島のいろんな美味しいものが食べたくなったり、それ以外にも国内旅行にいきたくなったりする意味でも単純に観てて楽しいコンテンツだと毎回感じる。地方局の情熱とクオリティ、ハンパないって!という気持ちになりますな(鹿児島だけに)
終わり!
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