論理の流刑地

地獄の底を、爆笑しながら闊歩する

薬丸岳『友罪』

数か月ぶりにフィクションを読もうとおもって近くの古本屋で購入。
W杯を傍目にみつつ読み進めていたら、途中で引き込まれて600ページ弱を一気に読み終えてしまった

扱っているテーマがテーマなだけに、「爽快な読後感」みたいなものとは程遠いが、
しかし重く残りつつける澱のようなものをもたらす作品であった。

この本では、同じ工場ではたらく4人の登場人物が過去に起こした「罪」とともに苦しみながら生きる姿が描かれている。
もちろん一番重く描かれているのは、少年時代連続児童殺傷を起こした鈴木の罪であるが、中学時代に友人の自殺を止められなかった主人公益田にしろ、成人男性向けの映像作品にかつて出演したことで人生が狂った藤沢にしろ、息子が起こした事故の贖罪を考え続け、自らの家族が家族として生きていくその形を自ら解くこととなった山内にしろ、かつての「誤った」選択が生んだ帰結、そしてそれがどこまでもついてまわる人生のどうしようもなさに唸り、悶えている。

人を殺めたり、他人の命に関わるような罪や咎が私にあるわけではないが、いっぽうで傷の全くない人生ではないし、益田の隣室で夜中に唸り声を上げ続ける鈴木が完全に他人には思えなかった。
「どこまでも罪が追っかけてくる」という彼の声は、(作中の彼ほどの残忍で取り返しのつかない「罪」を過去にもつ人間でなくても)この社会で、少なくない人が心の中で発する慟哭ではないだろうか。

あのときこうしていれば.....、もっと注意していれば....、周りの人とのことや思ってくれていた大切な人のことが見えていれば....、
そう思いつづけて数年・数十年が経ち、なおも罪がもたらす傷がふさがらずに生き続けること。
そのように生きることを強いられるのがあまりにも辛くなって耐えられず、自ら終止符を打ってしまいたい思いに苛まれること。
それを一生体験せずに生きていく人のほうが多いのかもしれないし、それが真っ当で「正常」なのかもしれない。

しかしそこから外れてしまった人間は外れてしまった人間なりに生きていくしかないし、
そこが抜け出せない隘路であっても、周囲や環境、そして何より自身を突き刺すような己の悔恨とともに生きていくしかない。
その意味が、いや意味などなくともその困難が、どうしようもなく全身に浸潤していくような、そういった作品であった。

他人が、そしてなにより自分が、自分を許せずともそれでも歩くことの必要性、「歩くことは許されない」と思いつつも歩き続け、軋んでいく自身の心や体とともにあることの容易でなさを、描写することに成功した作品ではないかと感じた。


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