論理の流刑地

地獄の底を、爆笑しながら闊歩する

猪木武徳, 2021, 『経済社会の学び方』

Introduction

新幹線でサクッと読んだ本
結論からいうと、「良くも悪くも引っ掛かりのない本」という感じだった。
スルスル食えるけど味もすぐ忘れそうな感じの。

普段結構(色々必要に迫られて泣きながら読んでるものも含め)読んでいても忙しさにかまけて
ブログとかにはまとめないんだけど、引っ掛かりがなさすぎて逆になんか書かないと読んだことすら忘れそう、と思ったので書いている次第。
だいたい経済学が何やってるか、ということに関して土地勘があるとそこまで時間をかけて読むべきものでもないのかもしれない。

すごーく偉い”大家”の先生が書く本って, たまにものすごくアクが強かったり延々と英雄譚(本人だけでなくその周辺のビッグネームたちも含む)が綴られていたりしますが、この本はまったくそんなことはなく、近年の特定のトピックにも理論にもそこまで絶賛もダメだしもすることなく淡々と進んでいく。
森嶋通夫とかその弟子の橘木先生とかの本はそのアクがもう濃縮還元状態だったけど、その分印象深い部分も多かった。下の過去記事参照)
ronri-rukeichi.hatenablog.com


おそらく著者である猪木先生がすごーい謙虚かつ良心的な学問的姿勢をもっている感じがして、その奥ゆかしさが全体的な薄味感につながっている気がしないでもないのです。

とりとめのない所感

まず読み始めると「自然科学」と対比させる形で「社会研究」という語が出てくる(あれ?「社会科学」じゃないんだ、となる人は多いと思う)。ここに「社会科学」という語を使わないことにある意味この書を通底する慎重なスタンスがあらわれている

「自然科学らしい体裁」を社会研究が(選択性を自覚することなく)とることへの違和感がその背後にあり、それがこの書のすべてといっても過言ではないのだろう。

本書を全部読み終わったところで、著者このような姿勢を堅持することの理由について無理やり二点にまとめると

  1. 自然科学と社会科学(社会研究)では知識として探究すべき真実性のレベルが違うこと
  2. 社会研究が「認識の二重構造」と不可分な関係にあるということ

となるだろう。

前者については、以下の引用部分が端的に著者の考えを表している。

すでに第1章で、「真理」と「真らしさ」を区別し、学問には厳密に数理的に論証できるような性質の研究と、厳密論証はできないが、「真らしさ」を探究するという二つの分野があると述べた。
論証する(verify)学と探究し(explore)し続ける学があり、すべての問いかけを論証する、論理的に証明することだけが「学の本質」ではない」
(p.208)

後者については、以下のように述べられている

「事実」と「その時代の人々が信じた事実」は、ほとんど重なり合う部分があるとしても、基本的には別物と考えなければならない。

これは、社会研究における「認識の二重構造」とも関係している。
端的に表現すれば、「社会研究をするものは、人々がその社会をどのように認識しているのかについて認識している」という二重性である

まぁ当たり前というか、わりと社会科学の方法論的な書とか科学哲学系とかの入門書では耳タコな話ではあるんだけど、意外と無自覚な「科学っぽさ」装備をしてしまうことについてはどれだけ警戒してもしすぎることはないのだろう、と感じた。

個人的に印象に残っている部分

読みながら「せやせや」と頷いたところだけ抜き書き。
(内容が、ってか表現がかっこいいと思っただけかもしれんですが)

演繹論理の偏重や徹底は自由な発想を妨げることがある。
「徹底する」精神は個人の思考や行動に限れば尊いものを生み出すかもしれない。

しかし社会全体に関しては、極端や徹底は必ず他者への強制につながる。
理論を徹底させて現実と混同すると、自由を奪うような思想へと変貌しやすい。

その意味では、中庸を射抜くことは必要であり、思想や政治的選択における妥協点を見つけることを軽視してはならない
(p.70)

「中庸を射抜く」って表現がかっこいいから惹かれたってのはあるんですが、なんというか自分が人生で一番尊敬してる学生時代の恩師が、こういう姿勢を体現しているような人だったので。

理論が個別具体的な事実をそのまま説明していると考えるのはあまりにも単純だ。
ある現象を解釈するときには、概念なりモデルは必要だが、そのモデルと現実が完全には合致していないからこそ、はじめて「なぜ」という真っ当な問いが生まれる。
なぜモデル通りに社会の変動や歴史の動きを説明できないのかと問うことが意味をもつのだ。

経済理論をそのまま経済政策に当てはめようとすることの問題はここにある。
理論ではこうだけれども、そうなってないのはなぜか、という「理論の否定的使用」にこそ理論の意味がある。
(p.79)

シンプルな基本モデルによる説明を試みたうえで、アノマリー(逸脱的事態、事象)をみつけることの重要性、みたいなものはビジネスでも研究でもかわらないのだろう。

こうした「証拠に基づく医療」という考え方が、公共政策、特にミクロの経済政策の分析に転用されるようになった。
ただし、医療と公共政策には根本的な違いがある。

治療の場合は、患者の治療という点では医師と患者の目指すところ(利益)は一致している。
そのためいかなる治療を選択するのかについて、「目標価値」の不一致はほとんどない。

しかし公共政策においては利害関係者の目標が一致しないことが多い。
そうした場合、どの政策を選択するのかについて、「価値」の選択をめぐる争いが表面化することは避けられない。
(p.197)

言われてみれば当然のことではあるのだけど、自分はEBMとEBPMの違いを考えるとき医学・疫学と政策科学のアプローチや対象の性質の違いばかり考えていたので、メモ。


あと、さいごに備忘として書き残しておくと、ちょくちょく色んな関連領域の研究からreferされているものとして、グローバルヒストリーものの有名どころ(「銃・病原菌・鉄」とか)に関してはいい加減積読を解消していかなきゃな..と思ったのでした。この本でもちょっと出てきてた。

年末年始の休み(休みとは言ってない)中に、あと3-4冊の積読と5本くらいの積論文を解消したいところ...


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Enjoy!!