論理の流刑地

地獄の底を、爆笑しながら闊歩する

Boudon(1969=1970)『社会学の方法』

社会学の方法 (文庫クセジュ 483)

社会学の方法 (文庫クセジュ 483)

Boudon, Raymond , 1969, Les methodes en sociologie,Presses universitaires de France(=宮島喬訳, 1970, 『社会学の方法』白水社)

Introduction

普段社会学の本はあまり読まないが、古本屋で見つけたので暇つぶしに読んだ。
訳者がかの安田三郎に礼を述べていて、おぉっ!となったり。

面白かったところを備忘。

印象に残った箇所など

個人的に琴線に触れたところを抜き書き。
半世紀前に書かれた本なので、現在の社会科学の水準からみるとうーんってところも勿論あるにはあるけれど、未だに有効な視点のほうがむしろ多い。
単純に知らないことも多かった。

悪しき「原子論的」な標本調査について

しかし、この種の調査は、個人をその社会的環境から切りはなして人為的な抽象物として考察しているとして批判されてきた。そしてそれはもっともな批判であった。

けれども、それは標本調査に本来内在している欠陥ではない
むしろそれは、のちにみるように、原子論的調査とでもよびうるもの、すなわち個人のぞくしている環境をしめす特性からではなく、ただ個人の特性のみもとづいて個人の特徴づけをおこなわせるような調査のもつ固有の欠陥なのである(p.17)

組織・制度を対象とする社会学的研究の一般的傾向

一般的傾向として、集団や制度を対象とする研究は、それらの社会的単位に構成されている社会体系を、わずかの変数とそれらの変数間の少数の関係の函数としてあらわそうとしている。要するに、それは、しだいに明白な機能のモデルを追求していくという傾向にほかならない(p.19)

社会変動・社会体系を説明する理論における進歩のなさについて

パーソンズのような現代の構造機能主義者の用いている証明手続きは、モンテスキュートックヴィルのそれとさして変わりがない。
このことからえられる印象では、方法的進歩におけるはっきりとした境界線は、社会変動や社会体系についての定性的研究の領域に引かれているように感じられる(p.23)

若干訳文がわかりにくいが、要するに社会変動論や社会システム論はその歴史の割に進歩がないよ、ということを指摘している箇所。

訳者まえがきでも、Boudonの立場は、米国由来の定量的方法の重要性を提唱しつつも、ウェーバートクヴィルなどの「ヨーロッパ社会学の精神的伝統をそれなりに正統的に受けついでいる」(p.4)ような立場であると解説されているが、そのどちらにも当てはまらない米国産システム理論への目は厳しい。
(逆に米国で調査や定量分析の発展に尽くしたLazarsfeldへの賛辞は惜しみない)

いっときは栄華を誇ったシステム論的・構造機能主義説明が退潮傾向にあった当時の社会学界隈の空気感があらわれている。

欲望や動機、打算がいかにして社会学の対象になるかについて

人間にとって可能な模倣や欲望や打算は、それらが社会的事実となるかぎりにおいて、はじめて社会学者の関心の対象となるものだからである。
さきほどの例では、消費者の欲望も、生産者の目標も、消費曲線および生産曲線によってあらわされる。それらの曲線こそ、説明すべき事実なのだ。


この説明のために、筆者は、行為者たちに代えてある計算を導入している。この計算は、ある量とある量のあいだに関係があることをあらわそうとしている。
次いで、筆者は、それらの関係が観察された事実をはたして説明してくれるかどうかを検討しなければならないだろう。

したがって、数学がどうしても必要になる(p.31-32)

Boudonの方法的立場がよくあわらわれている箇所である。

個人が(彼らなりの合理性にもとづいて)どのような計算・期待・欲望を抱いて行動するかについて仮説を立てることは必要だが、それ自体を観察しようとするのではなくて、あくまでも集団レベルで観察される「社会的事実」との関連において説明がなされるべきである、という立場である。

苛烈な「全体性」観念批判

Boudonは全体性を強調するような説明理論を好まない*1傾向にある。
以下、ギュルビッチへの痛烈な批判など。

しかし、社会的現実のあらゆる層はたがいに浸透しあい「全体的社会現象」を構成しているとする命題からはーーそれがたとえある意味をもっているとしてもーー方法論のプランに関しては何の特定の結論もみちびかれない(p.35)

結局経験的な分析に対してどういう示唆をあなたの「全体性」を強調をする理論は有するのよ?ということがBoudonにとっては重要であった。

要するに、「全体性」の観念は明晰というにはほど遠く、それには少なくとも三つの異なった意味が区別されることを認めなければならない。
じっさい、それは、社会的現実はあますところなく網羅的に記述されなければならないという観念を示唆するか、
あるいは社会はその諸要素が相互依存的であるようなひとつの体系として分析されなければならないことを強調するか、
でなければ変動の分析に適用されて、変動を理解するには社会的現実を構成している要素相対を考慮にいれなければならないということを意味するか、のいずれかである(p.37)

赤字下線強調部が、3つの全体性の区別されるべき意味。
批判の対象となっているギュルビッチは、最後の変動の理論に関連づけられている。

ギュルビッチの立場は変動の社会学とかかわりをもっている。
かれにとって、社会は、相互依存的な諸要素の体系としてよりも、むしろたえざる変動状態のなかにおかれた一体系として理解されるべきなのだ。
だからそこでは、全体性への要請はむしろ変動の分析にたいして適用されている。
その仮定によれば、社会の変動は社会的現実の「深さの諸層の」の全体を考慮にいれなければ理解されえないという。


だが、ことこの点に関しては、われわれの知っている全体社会レヴェルの変動分析は、コントやマルクスのそれであろうと、マックス・ヴェーバーのそれだろうと、「深さの諸層」全体を考慮にいれるどころか、反対に少数の変数に特別の重きをおいて、それらの変数から当の変動を説明していることに注意する必要がある
(p.37-38)

説明モデルは倹約的である必要があるよ、と。
さらにBoudonは続ける。

社会的現実の全体性にもとづいて変動を説明することをじっさいに期待できるのは、あまり複雑ではない社会が問題となっているばあいに限られる。
産業社会を問題にするときには、どうしても変動のある一定の要因に特別の重きをおいたモデルを構成しなければならなくなる(p.38)

問題はもはや網羅的な記述をこころみることではなく、それらの体系の諸要素にできるだけ満足のいく説明をあたえてくれる単純なモデルを構築することにある。

比較的単純な社会を問題とするばあいをのぞけば、社会的現実の全体によって変動を説明しようとすることは無意味に近い。
全体性の観念は、そのばあい、操作的な意味を欠いた、限界のある観念なのである(p.39)

そもそも説明モデルが全体性を含んだままでは、なんのためのモデル化なのか、という批判である。

原子論的調査と構造的調査の対比

Boudonは、社会的環境に関する情報を取得できず、「個人的な変数しか構成できない調査」=原子論的調査に対して厳しい目をもっている。

(引用注:Lipsetらの構造的調査を用いた労働組合の分析を紹介したのちに)
原子論的なタイプの調査を用いたならば、とうぜん以上の現象をつきとめることはできなかったであろう。
組合への関心に説明をあたえてくれる個人的変数はみつかったかもしれない。しかし、根本的な規定要因のひとつ、すなわち環境の政治的風土は見逃されていたことと思う。

構造的調査は、社会学的研究のなかで基本的な役割をはたすことを約束されている。事実、原子論的調査がーそのためにくりかえし批判されてきたようにー個人をその構造的文脈から切り離していわば無定形な社会的空間のなかに置いて考察するのにたいして、構造論的調査は、個人の行動を「社会構造」のなかに置きもどして分析することができるのである(p.57)

個人レベルの変数は、あくまでも彼らを取り巻く(メゾレベルの)社会環境との関わりにおいて説明に用いられるべきであるというのがBoudonの立場である。

機能分析に対してのBoudonの態度

Boudonの視点においては機能分析はそこまで有望なものだとみられていないが、完全に不要だと切り捨てているわけでもなく、とても限定された場面では必要となりうるという。
定性的・定量的双方の比較が不可能な単一事例に対する手法として、である。

要するに、機能分析はヴェーバー的方法と同じように、比較的曖昧な性格をもっているのであるが、にもかかわらず、ある種の社会学的問題にたいしては唯一適用可能な方法であるようにみえるといえる。
それはとりわけ、唯一の事例としてしか存在しないような現象を説明しようとする場合である(p.141)

それに該当する事例として、本著においては

  1. 民族学(というか文化人類学)における、小規模で未分化な社会の分析(例:ラドクリフ・ブラウンによるバ・トンガ族の分析)
  2. 社会学における、(類例のないような)特殊な現象の存在の理由の分析(例:マートンによる「ポリティカル・マシーン」の分析)

が挙げられている。前者は有機体説の影響を色濃く受けているのに対し、後者はその影響を徹底的に排除したところに差異があるという。

その「マートンの機能分析」に関しては、以下のような認識であった。

じっさい、マートンのかたる機能とは、とくに個人または社会集団の欲求との関連において規定されている
この種の立場はたしかに、全体としての社会と関連づけることをすべて拒否したうえで機能の観念を定義しようとおもうときに出会うアポリアをとりのぞいてくれるという利点をもっている(p.141)


とくにマートンの研究によって例証されているものであるが、それは、機能分析をむしろ、特定の社会構造によってさまざまな集団や社会的区分の内部に惹起される欲求を明らかにするところの方法として定義している。
この傾向は、心理社会学的機能主義と名づけることができる。(p.142)

マートンの機能分析についてはいくつかの解説をみたが、ここまで「欲求」の発見を強調した説明はなかなか珍しいという印象をもった。

Conclusion

上にはとりあげなかったが、Lazarsfeldの潜在クラスモデルに触れていた部分も読みごたえがあった(少なくともこの本を書いていた当時に関しては、BoudonはLazarsfeldの大ファンである)。
というか潜在クラスモデルって半世紀以上も前から(何なら第二次WW中から)使われている古典的手法なのね...


春嵐 - john (Cover) / いゔどっと

Enjoy!!

*1:という言葉はマイルドで嫌悪といったほうがいいかもしれない